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永遠を彷徨うコンドルの噺 

​里見透

- 7 -

 ヨセフの絶叫と、母の叫び声が重なった。燃え広がる炎を見て、咄嗟に井戸へ手を伸ばす。だが先程父ともみ合った際に、井戸の底へ落としてしまったのだろうか。釣瓶にかけた綱がない。真っ青になったヨセフは、それでもすぐさま母の方へと駆け寄ると、素手で彼女の衣服を剥いだ。
 その頃には屋敷の使用人達も、騒動に気づき動き始めていた。ある者は水瓶を取りに炊事場へ走り、ある者はナイフを取り出して、燃え広がろうとする母の髪を切った。父はすっかり惚けてしまい、その場に座り込んだまま、何をしようともしなかった。こんなことになろうとは、思ってもみなかったという様子であった。
「母さん、……母さん!」
 水瓶に汲んだ水をかけ、火はなんとか消し止めたものの、背と顔の右半面に火傷を負った母は、どんなに呼んでも目を覚まさない。息はある。しかしいかにも頼りない、浅くか弱い呼吸であった。
「医師を、……医師を呼んで。今すぐに」
 自らも腕に火傷を負いながら、やっとのことでヨセフは言った。頷いたインティの使用人達が、数名外へと駆けていく。とはいえ、田舎のクェスピ領に常駐している医師の手では、応急処置を施すのがせいぜいであろう。
「誰か、アルマスの医師にも使いを送って。酷い火傷だと説明して、薬も沢山持ってきてもらうんだ。──いや、やっぱり俺が行く。俺が馬で駆けるのが、きっと一番早いだろう」
 浅い息をする母を横たえて、ヨセフがそっと立ち上がる。腕の火傷のせいだろうか。何やら体が酷く火照って、視界はぐらぐらと揺れていた。それでもなんとか馬の方へと向かうヨセフを、そこに留める腕がある。
「その必要はない」
 そう告げたのは、先程まで黙って座り込んでいた父親だ。続いた言葉に、ヨセフはこの男の正気を疑った。ヨセフの父は地面に横たわった母を見下して、火傷で赤黒く腫れあがった母の顔を見るや、こう続けたのだ。
 「もはや、医者に看せるほどの価値はない」と。
──征服者達め、俺達の命なんて何でもないと思ってやがる。
 不意に、先程チュチャの家で聞いた、インティの言葉を思い出す。視線を落とせばヨセフの母が、半分程も塞がれてしまったその口を、懸命に動かしていた。
 「トゥパク、」と呼ぶ、柔い声。彼は咄嗟に跪き、爛れた腕で母を抱き寄せると、かすれたその声に耳を傾けた。
「ごめんね、トゥパク。ごめんなさいね、──私は結局、白き人々からも、インティからすら、お前を守ってあげられなかった、……」
 ヨセフの腕に、震えが走る。インティからすら。それでは母は、知っていたのだろうか。あの夜ヨセフが、どこにいたのか。半分だけの己の血の由来を、知ってしまっていたことも。
「──トゥパク。お前は私に残された、宝物の、その、片割れ」
 焼けて爛れた母の手が伸び、その胸元をそっと撫でる。そこにはあの日、彼が受け継いだ、太陽の紋の首飾りがある。
「太陽の神に愛された、コンドルの最後の子。お前が進むべき道を、どうして、裏切り者の私に決められようか……。コンドルの子。お前は気高く飛翔する、コン、ドルの、……最後の、──」
 振り絞るようなその言葉が、ヨセフの腕の中で果てた。周囲で見守っていた使用人達が、口々に何か言い募る。座り込んだヨセフに、父が何かを話しかけた。だがそのどれもが、ヨセフの耳には雑音のように不快に思われ、言語として理解することはできなくなっていた。
 ヨセフであり、トゥパクであった少年の中で、今、何かがせめぎ合っていた。
──お前は私の息子だけれど、同時に、白き人々の血を引く子でもある。どちらの言葉も理解できる。……お前は賢い選択をなさい。どちらの神を選ぶのか、どう生きてゆくべきなのか。
 己に流れる二つの血を、見定めようと必死であった。遠い旧大陸からやってきた人々の高慢さを目の当たりにし、物のように扱われるインティの人々に同情をしながら、しかし力に屈し、古き神々を捨て去ろうとする彼らの姿に失望もした。
 それでも彼は、知ろうとしたのだ。自らの生命を贄として捧げられそうになりながら、彼らを恨まず、ただ純粋に、その背景を知ろうとした。そうしてそれを残そうとした。彼を構成する、もう一方の道具である、文字を用いて。
 選びなさいと母は言った。
 選ぶことはできなかった。己の内に流れる二つの血は、そのどちらもが、彼の生命を象る要素であったから。
 だが今、その二つの血は混じり合い、毒のような臭気を帯びて、──彼の身の内を巡っている。
「俺にはどちらも、選べない、……」
 ぽつりとひとつ呟いて、少年はうつろな目を開き、焼けただれたその腕を、彼の父親へと伸ばした。彼の記録は燃えてしまった。彼の母親も炎で死んだ。ならばその片割れも、
 炎で死なせてしまいたかった。
 くぐもった悲鳴をあげる父の声。騒然となる周囲の声。すっかり灰と化したヨセフのノートが、かさかさと音を立てながら、地を這い辺りへ散らばっていく。
 視線を上げれば、そこに見知った顔があった。どこかで馬を借り、彼を追ってきたのだろう。額に汗を浮かべたインティの少女は、口元を引き結ぶと、そっとその場に跪く。
「ごめんね、チュチャ。……君が待っていた太陽の加護は、もう、二度と、昇らない」
──時が来れば、太陽が再び現れたなら、私も必ず戦うわ。私は戦士の一族の女だもの。
 じっと彼を、──彼の瞳を覗き込むこの少女が、彼に何かしらの期待を抱いていたことを、少年も薄々気づいていた。彼の母が持つ首飾りの意味を、理解していたインティは幾人もいた。贄として泉に捧げられた、この少年の身に起きた奇跡のような出来事を知る者も、その全てが、命を絶ったとは限らない。
 チュチャもおそらく、知っていたのだ。知っていて、さも偶然かのように、あの日少年に声をかけた。
「……太陽の加護を継ぐ王の訪れを、長い間待っていた。だけど、……トゥパク、あなたがそれを選ばないなら、私もそれに従いましょう」
 チュチャが微笑んだので、彼も思わず、微笑んだ。
「もうすぐここへ、保安官が押し寄せる。この土地の領主を殺したんだ。俺も咎めを受けるだろう。だけどその前に一箇所だけ、付き合ってほしい場所があるんだ」
 「どこへでも」と告げる声は穏やかだ。少年はその場へ背を向けると、「ビルカバンバの麓の森へ」と、そう言った。
「君が話してくれた、最盛の王、コリンカチャの逸話にあった、──知の泉、ススル・プガイオを探したい」
 
──最盛の王コリンカチャは、まだ幼い頃、ススル・プガイオと呼ばれる泉を見つけたの。トゥパク、あなたのその瞳のように、青く明るい色の泉よ。
──コリンカチャがその泉を覗くと、そこに太陽の光輪を背負った男がいた。何羽もの黄金のコンドルを従えたその男は、コリンカチャに彼の未来を告げたの。
──泉の中の男は、太陽神の化身であったと言われているわ。その泉は神の泉。過去に行われたことも、これから起こることも、何もかもすべての事象が、そこには蓄えられていた。
 
 木の生い茂る、ビルカバンバの麓の森は、暗い闇に閉ざされていた。そんな中をさくさくと、茂みをかき分け進んでいく。
 先を進むチュチャが、松明の火をふと掲げる。そうして見つけた五つ目の泉を覗き込み、「これも違うのかしらね」と彼女は苦笑した。
 幾条かの川と豊富な地下水を有するこの森には、泉と呼べる代物が複数あり、そのどれがススル・プガイオであるのかは、伝承の中で明言されていない。それで二人は森の中を歩き回り、泉を見つける度、それを覗き込むということを繰り返していたのだ。
「インティの民は古来、生きた人間を生贄にして、その心臓を神に捧げていたの」
 ふと、チュチャがそう告げる。
「あなたが望む、泉の中の男との邂逅も、生贄を捧げれば叶うかもしれないわ。試してみる?」
「冗談言うな。君が生贄になってくれるとでも?」
 苦笑しながら少年が言えば、「そうよ」とチュチャは軽い口調で言った。
「私達は王を求めた。王はついぞ、現れなかった。残されたインティには、もはや破滅の道しかない。──そうして滅んでいく様を目の当たりにするくらいなら、私はあなたのために、生贄にだってなりましょう」
 「そうか」少年はぽつりと答え、その場へ静かに足を止める。
 そこにまた、ひとつの泉があった。チュチャが話して聞かせたような、青く明るく輝く泉が。
「ねえ、チュチャ。君をここに伴ったのは、本当は君が、ススル・プガイオの在り処を知っているんじゃないかと思ったからなんだ」
「あら、……それはどうして?」
 微笑み、振り返るチュチャの目が、少年をじっと見つめている。
 少年の、青く輝くその瞳を。
「君がいつだって、まるで全てを知っていたかのように、何もかもを受け入れるから」
 チュチャはただ微笑んで、彼の問いには応えなかった。少年は己の身につけた首飾りを外し、それをチュチャに手渡すと、「好きに使って」とそう告げた。
「君が使うのでも、ワスカルが使うのでも構わない。印さえあれば、きっと誰だって構わないんだ。これを掲げて王を名乗れば、協力を名乗り出る部族もあるだろう。……俺はせめて、新しく立つその王の、健闘を祈ることにするよ」
 それが最後の言葉になった。
 幼い頃、耳にしたのと同じように、とぷんと静かな水音があった。手足を縛られてはいなかったが、少年は一切の抗いを見せず、泉の内へと沈んでいった。
 しんと静まり返った水中は、彼にとって心地が良かった。
 ふと目を開けてみてみれば、遥か眼前に、月の光を受け、揺らめく、美しい水面が見えていた。
 
 ***

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