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永遠を彷徨うコンドルの噺 

​里見透

- 8 -

 艶やかな色とりどりの布が、青空の下ではためいている。ぼんやりとした意識を呼び起こしながら、少年は幾度か瞬きした。
 自分が何をしていたのか、今ひとつすぐに思い出せない。しかししばらくするうちに、どこか、広大な敷地に面した高い椅子に、座していることを認識する。
 楽しげな人々の声が、拓けたその場に満ちていた。
 基壇状に日干し煉瓦を積み上げた、巨大な高台の中腹に、少年は腰掛けていた。闘技場か何かであろうか。高台の前には広場があり、それをぐるりと取り囲むように、人々がひしめき合っている。そうして歓声を上げるのも、場の中心で舞い歌うのも、──皆、褐色の肌をした、インティの人々である。
 鼻孔をくすぐるかぐわしい香り。見れば少年の座した席の前に、食事が用意されている。つやつやと輝く果物に、調理された肉の類。それらの食事がその席に座した人間のために、特別に用意されたものであることを、少年はすぐに理解した。
「……、王のための席」
 呟いて、ふらりとその場へ立ち上がる。すると場にひしめき合ったインティの人々が、少年を見、喜びの歓声を上げた。
 これは一体、何だというのだろう。見れば先程、人々が舞い歌っていた場には戦士達が姿を表し、その腕前を競い始めている。その様子を見る人々は、それぞれに拳を振り上げ、戦士達を応援した。
 何かの祭の最中であろうか。しかしなんにせよ、少年の知らない祭である。そもそもこんな集いが、存在しているわけがないのだ。広大な土地にインティだけが集まって、こんなふうに楽しそうに、遊びに興じる姿など──、
「久しぶりだね、コリンカチャ」
 耳に覚えのある男の声。コリンカチャ、と、少年を英雄の王の名で呼ぶその男の姿は、すぐに見つけることができた。
 気怠く振り返る少年の目の前に、黄金のコンドルを従えた男が立っている。コンドルを従える、この男自身の体も、柔くいくらか発光している。それで少年もようやく、己が一体何者で、何を行ったのか、全てを思い出すことができた。
「ススル・プガイオ、──その泉の中の男。もしやあなたが、そうなのですか。あの日、あの晩、インティの人々の手で神に捧げられた俺を助けて、……運命を『書き換えた』のは、あなたなのですか」
 震える声で問うてみる。すると相手は不可思議そうに眉根を寄せて、「ああ、もしかして」と、無遠慮に少年へ詰め寄った。息のかかるほど近くまで顔を寄せられても、不思議と、男の呼吸を感じない。少年がじっと立ち竦んでいると、男は不意に笑いだし、少年の目を見開くように、両手で瞼を押し開ける。
「おや、青い目」
 彼が混血であることを物語る、白き人々から受け継いだ色。
「なんだ、似ているだけの別人とは。最近めっきり姿を見せないから、どうしたのかとは思っていたが。その様子だと、どうやらまた随分と、外では時間が流れたらしい。さて、教えておくれ。お前がいたのは一体いつの、なんという暦の上であった? お前によく似た顔貌をした、コリンカチャという友人がいるのだが、お前、その人間を知らないか」
 問われ、少年は戸惑いを隠せず、眉根を寄せた。
──久しぶりだね、コリンカチャ。……おや、違うな。よく似ているが、別人だ。それがどうして、こんなところへ迷い込んでしまったのやら。
 そうだ、以前もこの声は、少年を別の人間と誤った。そのことを、彼は忘れているのだろうか。
 「……コリンカチャは、」やっとの事で口を開けば、男はようやく少年を放し、「うん?」と言葉を促した。
「コリンカチャは死にました。もう何世代も前に、……。タワンティン・スウユの全盛を築いた王は死に、火の大陸には異民族達が押し寄せて、……今はもう、タワンティン・スウユという国自体が滅んでいます」
 ぽつりぽつりと少年が言うのを、男はコンドルの羽根を撫でながら、じっと静かに聞いていた。そうしてにこりと微笑むと、「そうかい」と相槌を打つ。この男は先程、コリンカチャを友人と言った。だがその死を聞いても、悼む様子は少しもない。
「ここは、……この祭は、一体何なのですか。インティの民が、インティらしい服を着て、楽しげにはしゃぎあっている。ここは、この場所は、」
「その質問には価値がない。既に答えを得ているのだろ」
 王のために誂えられた席を降り、人々の合間を縫うように歩く。だが人々は、少年のことも、この男のことも、見えていないかのように無関心だ。
「ではここは、俺の考え通り、……過去のタワンティン・スウユなのですか。最も栄えていた、コリンカチャの統治の時代の、」
 男は応えない。だがその沈黙こそが、彼にとっての答えであった。
(ああ、こんなにも、……豊かな時代があったのだ)
 男の足は止まらない。彼はただ無言で観覧席を下り、正面の門から塀の外部へと進んでいく。少年もそれに続き、しかし、──
 黄金のコンドルが羽根を広げた、その瞬間、息を呑んで立ち止まる。
 塀の外に、無限の水面が広がっていた。水面。そうだ、何の波紋も浮かばぬ水面が、少年の足元から視界に収まる全ての先へまで、ずっと、ずっとただ続いていた。流れのない、そこにある水面には、全て──、見知らぬ風景が映し出されている。
 振り返る。先程までそこにあった巨大な広場は、既にない。だが少年の足元に続く水面には、楽しげに笑うインティの人々の姿が映し出されている。
「──、知の泉、ススル・プガイオ」
 実感のないまま、ぽつりと小さく呟いた。
「アカシアの記録、アーカーシャ記……。ここに蓄えられた無限の記憶を、人間達は好きなように呼び、己の認識どおりの姿で見るものだ。こうして泉の姿となるのは、インティの民には文字がなく、記録を残すという概念がなかったためなのだろう。だがそれなのに、流水でないのが不思議でならぬ。時は流れ行くもの。生は移ろいゆくもの。それなのに彼らは、記憶を泉と表現する」
 男の言葉を、少年はすぐに理解することはできなかった。それでも、水面から目を離せない。水面には、彼にもそうとわかるインティの人間もいれば、白き人々の姿も映し出されていた。その他に、不可思議な衣服を身に着けたもの、見たこともない道具を操るもの、奇妙な動きをするもの、実に様々な者が映し出されている。
「結局の所、文字など、記録など、人の手で遺したところでたかが知れているのだ。一度争いが起きれば、多くの記録は抹消される。敗者の記録は勿論のこと、勝者の記録に限ってすら、正しく残される試しなどない。インティの民はそれを、よく理解していたのやもしれないな。だからこそ高度な文明を持ちながら、文字を得ようとはしなかった。ただその時を生きていた──」
「あなたは何者なのですか」
 気づけばそう問うていた。泉の中の男。最盛の王コリンカチャに、未来を示したと伝わる男。人間離れした雰囲気のあるこの男は、伝承どおり、太陽の神の化身なのだろうか。
「俺はあの時、インティの手で泉に捧げられた時、恐らく死ぬはずだったのです。だがそれを、あなたが助けた。『書き換えた』。……それは一体、何故なのです」
──だがここで、死なせてしまうのはどうにも惜しいな。お前のもう一つの運命は、なかなかどうして、魅力的だ。
──我が友人との縁もある。お前がそれを望むなら、この先の世界を見せてあげよう。
「単なる暇つぶしだ」
 ふと、言葉が口をついて出た。少年の口から出ただけで、彼自身の言葉ではない。見れば男は水面の上へ静かに立ち、その手に細い竿を持って、楽しげに、釣り糸を傍へ垂らしている。
「お前の祖先、コリンカチャとは釣り友達でね。あいつめ、万人の追い求める年代記を手にしながら、未来など知ってしまっては面白くない、過去など好きに作り変える、と笑いおって、過去も未来も望もうとはしなかった。なのにその血族が、『記録者』になる素養を持っていたなんて、面白い話じゃないか」
 記録者。
 馴染みのない言葉ではあったが、少年には心当たりがあった。文字を持たぬインティの歴史を、文化を、信仰を問い、それを書き記したノート。それはたしかに、記録であった。
「俺の記録したものは、全て灰になったけれど……」
 この男だって、つい先程言ったではないか。文字など、記録など、人の手で遺したところでたかが知れているのだと。
「お前は二つの血の合わさるところに生まれながら、どちらに寄ることもしない。征服者の血を継ぎながら、その権力を振りかざすこともせず、王の位に立つことのできる境遇でありながら、決起しようとは考えぬ臆病者。しかし、──」
 男の釣り糸に、何かがかかり、逃げおおせた。男は先の軽くなった釣り糸をつまみ、にやりと笑みを浮かべてから、少年を見据え、こう言った。
「記録者としては、正解だ」
 私の黄金のコンドルよ。この瑣末な暇つぶしに、お前の翼を使わせておくれ。
 
 ***
 
 嵐の夜のことである。
 ある屋敷に、旅の詩人が訪れた。荒天に濡れそぼる、その小柄な体を哀れに感じたのであろう。屋敷の主人はこの旅人を招き入れ、彼に宿と食事を与えた。
 
   詩人の口に語られまするは、全能の書の物語。
   弦よ、そのはじまりを歌いませ。
   人よ、その終わりを歌いませ。
 
 その音色の美しいこと。語りぶりの巧みなこと。旅の詩人はすっかりと、屋敷の人々の心の内に入り込む。そうして、褐色の肌のこの旅人は、目を輝かせて余興を見守る子供の手を取り、笑みを深くしてこう告げたのだ。
「王を見つけなさいませ、ジラルド様──」

永遠を彷徨うコンドルの噺

2019/1/14

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