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永遠を彷徨うコンドルの噺 

​里見透

- 6 -

「その一団は、……西の、どの領地へ向かったんだ?」
 ヨセフが問えば、カイニパはあからさまな舌打ちをして、「知らねえよ」とそう告げる。
「ただその方向に、向かっていくのを見ただけだ。何だ、西になにかあるのか?」
 カイニパの問いには答えなかった。しかしヨセフはごくりと唾を飲み込んで、表につないでいた馬の手綱を解くと、すぐさまそれに飛び乗った。
「……今日は、もう帰る。チュチャ、話の続きはまた今度」
 三人のインティに背を向けて、馬の腹を蹴り、走り出す。審問官が向かった先が、ヨセフの家のあるクェスピ領であると決まったわけでもないのに、何やら心が急いていた。いかんとも説明し難い嫌な予感が、彼の内に渦巻いていたのだ。
(そうだ、審問官が来たからといって、何かまずいわけじゃない。クェスピ領の人達は、既にインティの信仰を捨て、旧大陸の神を受け入れているんだから、……それに)
 とぷんと静かな水音が、再び脳裏に蘇る。あの曖昧な夜のことを、今こそ思い返せずにはいられなかった。
 『あの夜』、ヨセフは母に言われて、一人で眠りにつこうとしていた。その頃、まだ幼かったヨセフは毎晩母と共に眠っていたものだから、一人で横たわるその寝台が、やけに広く思われたことを、今でもよく覚えている。そこへ、数人の使用人達が入ってきた。
 彼らはやけに強張った顔をして、ヨセフのことを見下ろしていた。そうしてヨセフに、出かけなくてはならないから、支度をするようにと言ったのだ。こんな夜更けに、それも母の留守中に、一体どこへ連れて行かれるのかと、ヨセフは不安でならなかった。しかしその不安を見て取った彼らは、厳かに、ヨセフにこう告げた。
 インティの神の許しを請う為に、ヨセフには、なにか大切なお役目があるのだと。母は既にそれを行うべき場所へ向かっており、ヨセフの訪れを待っているのだと。
 窓のない、小さな輿に詰め込まれたヨセフは、声を殺し、震えを隠して、じっと彼らに従った。その輿が、一体どこへ向かったのかはわからない。だが目的の場所へ到着し、輿を下ろされたヨセフは、確かにそこで母の姿を見た。
 遠目から見る母の姿は、明らかに怯え、震えていた。深い森の中であった。囁くように何かを告げ、懸命に祈る母の前には、泉があった。
 月の光をてらてらと湛えた、青く明るい神秘の泉が。
 母が手にした黄金が、彼女の言う『宝物』であることに、ヨセフはすぐに気づいていた。母が大切に隠し持つ、太陽の紋の首飾り。けれど長い祈りの後、彼女はそれを、──泉に向かって、投げ捨てた。
 とぷんと響く静かな水音。嗚咽を漏らす母が、しかしやがて背を向けて、泉の傍から去っていく。それを木々の合間から、遠目に眺めていたヨセフに、使用人達はこう告げた。
「あなたの番です。……トゥパク様」
 言い知れぬ恐怖を感じていた。
 すぐにでも逃げ出したい思いはあるのに、手足を縄で縛られていた。助けを求めようと藻掻くのに、口になにかの葉を噛まされて、叫ぶことすらできないでいた。
「外よりいづる、イカヅチの神に守られた民……。白き人々の訪れで、私達の世界は変わってしまった」
 使用人の内の一人が、厳かな口調でそう話す。
「太陽の神を始め、古きインティの神々は、もはや我々を守らない」
「生きるために、古き神々と決別しなくては」
「古き神々を鎮めるために、最上の供物を捧げなくてはならない」
「──インティの王の血を継いだ、太陽の神の子の生命を」
 とぷんとまた一つ、水音が脳裏に響く。
 恐ろしく澄んだその泉に、他の生命の姿はなかった。何が何だか分からないまま、ヨセフは月光を湛えるその水面を、捧げられた供物の大きさだけ乱れた波紋を、水中から、ただ声もなく見つめていた。
 冷たい水に侵されて、縛られた手足から力が抜けた。呼吸を求めて口を開くのに、彼に与えられるのは、その神聖な泉の湛える水だけであった。
 うつろな視線を彷徨わせれば、きらりと光る黄金があった。母が投げ捨てた太陽の紋だ。ヨセフは縛られたままの手を、しかしその光に向けて延べた。その時、ふと、知らぬ男の声を聞いたのだ。
──久しぶりだね、コリンカチャ。……おや、違うな。よく似ているが、別人だ。それがどうして、こんなところへ迷い込んでしまったのやら。
 男の問いに、答えることはできなかった。ただぼんやりとした意識の中で、ヨセフはその声を聞いていた。
──そうか。地上では、お前達の時代が終わったんだね。だからこそお前達は、最後の王の子を殺すことに決めた。……だがここで、死なせてしまうのはどうにも惜しいな。お前のもう一つの運命は、なかなかどうして、魅力的だ。
 男の声は笑っていた。水底に横たわったヨセフは、己の頬に触れる柔らかな感触に、そっと目を開く。
 そこに黄金の光を見た。黄金の毛に覆われた、気高きコンドルのその姿を。
──我が友人との縁もある。お前がそれを望むなら、この先の世界を見せてあげよう。……なあに、気にすることはない。ほんの少し『書き換えた』ところで、悠久の時の流れの中では、瑣末な違いなのだから。
 何のことかはわからなかったが、ヨセフはそれでも頷いた。
 そうして気づけば彼は、まるで何事もなかったかのように、己の寝台で眠っていた。その晩のことは何もかも、夢であったかの様子であった。だが目覚めたヨセフの胸元には、母が投げ捨てたはずの首飾りが輝いており、──ヨセフのその姿を見た数人の使用人達は、翌日、職を辞すると共に、クェスピ領の北の森で、自らの手で命を絶った。
(あの日から俺は、インティにも、征服者にもなりきれないまま、……)
 マンチャシ山脈に、赤い夕日が迫っていた。二条の川を渡り、クェスピ領のある盆地を臨む。刈り入れを終えた畑を突っ切るように駆け、領内に、違和感がないことを確認する。どうやらカイニパの話した審問官達の影は、クェスピ領に至ってはいない様子である。ヨセフは馬の脚を緩め、自らも呼吸を整えると、深く安堵の溜息を吐く。しかし、──やっとのことでたどり着いた自宅で、彼は厩舎へ向かえぬまま、棒立ちになって戦慄した。
 裏庭に煙が立っていた。見ればヨセフの父が苛立たしげに、何かを炎に放っている。焚き火のようだが、おかしいとすぐ知れた。土地は有り余っているのだから、屋敷の敷地内で落ち葉を燃すわけはなく、ただ落ち葉を燃すだけなら、あの父が、手ずから火を扱うわけもない。
 実際のところヨセフは、そこで燃えているものが何であるのか、既に理解していたのだ。理解はできていた。だが、信じたくはなかった。ヨセフはごくりと唾を飲み込むと、「父さん、」と父親に語りかける。
「ああ、帰ったのか」
 無関心を装う、冷たい父の声。彼の手には見間違うはずもない、──ヨセフがこれまでインティの伝承を書き留めてきた、ノートが握りしめられている。
 ヨセフが駆け寄るのを見て取るや、父の手が、最後のノートを放り投げる。ヨセフはそれへ手を伸ばそうとし、しかし火の粉に阻まれて、掴むことを断念した。
 ぱちぱちと火が爆ぜていた。細かに綴ってきた文字が、赤い火の中で燃えている。
「あれは、……あそこで燃えているのは、全て俺のノートでしょう。どうして、」
「どうして? ──それは、こちらの台詞だ」
 怒気のこもったその言葉に、ヨセフの肩がぎくりと震える。同時に父の拳が、ヨセフの頬を強く打った。怒りに満ちた父の視線が、ヨセフの自由を支配する。
「近々審問官が尋ねてくると言うから、念の為に家の中を見回ってみれば……。最近部屋にこもることが多いとは思っていたが、何だ、これは。現地民の歴史? 宗教? こんなものを書き連ねて、一体何をするつもりだ。何のためにこんなものを、」
「何かのためじゃ、ありません。俺はただ、残したくて──、」
「残す? 野蛮な現地民共の語る、伝説だか事実だかの区別もつかんこんなものを? 残して一体何になる! 現地民共の祀る神の言葉だの、風習だの、こんなものを審問官に見られたら、すぐさま異端者として告発されるぞ。お前は、俺の顔に泥を塗りてえのか!」
 ぱちぱちと音を立てて炎が爆ぜ、ヨセフのノートを飲み込んでいく。殴られた頬が、鈍い痛みに疼いていた。それでも衝動を止められない。羽織っていた外套を炎へ被せようとし、それでも勢いが弱まらないのを見て取るや、なにか火を消す手段がないかと、咄嗟に辺りを見回した。父の背後に井戸がある。ヨセフはなりふり構わず父を突き飛ばすと、井戸の釣瓶に手をかけた。
(燃えてしまう、これまでに書き留めてきたもの、──全てが!)
「……ヨセフ! お前、父親に向かって何をする!」
 突き飛ばされ、尻餅をついた父が立ち上がり、ヨセフの襟首をひっつかむ。息が詰まって声なき呻き声を上げたヨセフの一方で、切り裂くような悲鳴上げたのは、女の声であった。
「ヨセフ、……ヨセフ! ダンナ様、いったい、いったいナニがあったのですか」
 訛りのある、片言の白き人々の言葉。別邸の方角から、駆けてくるのは母の声だ。彼女を巻き込んではならない。そう思うのに、父の太い指に首を締め上げられ、声を上げることすらままならない。呼吸をすることもできず、意識はちかちかと揺らめいた。
「おネガイです、ヨセフが気にサワることをしたなら、私が謝ります。どうか、どうか手をハナしてください、ダンナ様──!」
「煩い! その下手くそな言葉で話すな!」
 父が片手をヨセフから放し、まとわりつく母のことを突き飛ばす。それでようやく呼吸を取り戻したヨセフは、咳き込み、いまだぐらぐらと巡る視線をさまよわせて、──その光景に息を呑んだ。
 父に突き飛ばされた母が、炎の傍に倒れ込んでいた。ヨセフのノートを揺らめかせる、その大きな炎の傍らへだ。爆ぜる火の粉は見る間に宙を舞い、一瞬の後に、──
 倒れた母のその衣服に、音を立てて燃え移る。
「──母さん!」

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