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永遠を彷徨うコンドルの噺 

​里見透

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 チュチャはすぐには答えなかった。けれどしばしの後、そっとヨセフの正面に座ると、彼女は大きく息を吸う。そうしていつものように、たった今の問答など、何もなかったかのように、こう言った。
「先週の話の続きをしましょう。確か、コリンカチャがビルカバンバの麓にある、ススル・プガイオと呼ばれる泉に通っていたところまで話したのよね」
 チュチャの言葉に、一つ頷く。すると彼女はいつものように、また滔々と、インティの歴史を語り始めた。
「火の大陸を縦横に渡り諸部族をその支配下に置き、タワンティン・スウユを富ませた英雄の王、最盛の王コリンカチャは、まだ幼い頃、ススル・プガイオと呼ばれる泉を見つけたの。トゥパク、あなたのその瞳のように、青く明るい色の泉よ。
 私達インティにとって、地底より水の湧き出る全ての泉は、基盤たる地下世界と地上とを結び止める、聖なる柱に他ならない。最盛の王コリンカチャは、聖なる柱たるその泉に敬意を払い、低頭して、──その泉の不可思議に気づいたそうよ。コリンカチャがその泉を覗くと、そこに太陽の光輪を背負った男がいた。何羽もの黄金のコンドルを従えたその男は、コリンカチャに彼の未来を告げたの」
 「未来を、」ヨセフが静かに口を挟めば、チュチャも神妙に頷いた。
「そう。ススル・プガイオはコリンカチャに、彼の未来を垣間見せた。コリンカチャが将来多くの国を従えることを教え、それと同時に、王家の祖先たる太陽の威光を忘れぬようにと告げたのよ。コリンカチャは泉の男に告げられたとおり、太陽の神殿を造り、祖先たる神々を祀った。そうして予言どおりに、周辺の諸部族を攻めて支配下に置き、タワンティン・スウユを平定させたの。
 その一方でコリンカチャは、度々泉を訪れては、未来を覗き見、国をどう導くべきかを思案していたそうよ」
 その時ふと、家の外から声がした。ワスカルが待っていた客が訪れたらしい。チュチャはちらりとそちらを見て、しかしワスカルが外へ出ていくのを見届けると、続けてヨセフにこう言った。
「泉の中の男は、太陽神の化身であったと言われているわ。その泉は神の泉。過去に行われたことも、これから起こることも、何もかもすべての事象が、そこには蓄えられていた。それでコリンカチャは、そこで得た未来の情報を、政や戦に利用したの」
 チュチャの言葉を聞きながら、ヨセフはふと、その光景を思い描く。
 月の光の煌々と、降り注ぐ静かな夜の森。ビルカバンバの麓の森は、しかし夜空の光を遮るかの如く深く茂っている。
 そんな中を、一人の男が歩いている。太陽と月のモチーフを刺繍した、立派な衣服に身を包んだ男であった。顔の大きさほどもある金色の首飾りを身に着けた彼は、暗闇の中を危うげもなく進んでいく。鳥の羽音。男が腕を掲げれば、そこに光る鳥が舞い降りる。コンドル。黄金のコンドルだ。
(そうだ。チュチャは以前、コリンカチャが神からコンドルを授けられた話をしていたもの──)
 黄金のコンドルが身じろぎすれば、その眩い光を映し出すように、男の足元にもすうっと光が広がった。それが青の泉、──知の泉、ススル・プガイオである。
「過去と未来を、全て蓄えた知の泉、……」
 ヨセフが呟けば、チュチャが小さく笑ってみせる。
「そう。あなたみたいな知りたがりには、うってつけの泉よね。あなたがそこへ行ったなら、未来より過去を見るのかしら。過去を見て、それを白き人々の言葉で、紙に記録するのかしら。──それとも」
 チュチャの目が、じっとヨセフを見つめていた。
 明るい青にきらりと輝く、ヨセフのその双眸を。
「それとも未来を覗き見るの? いつ滅ぶともしれない、哀れなインティのこの先を」
 チュチャの声の冷たさに、ぎくりと肩を震わせる。震えの理由が何であったのか、ヨセフにはしかし、わからなかった。
 ただ彼は、じっとチュチャの目を見つめ返して、思うままに、こう問い返す。
「そんな泉があったとして、……そこに既に記された未来を、『書き換える』ことはできると思う?」
 「『書き換える』?」訝しげに、チュチャが眉根を寄せて聞き返す。ヨセフはごくりと唾を飲み、「実は」と彼女にそう告げた。
「君に話したいことがあったんだ。その、……信じてもらえるか、わからないけど」
 言い淀むヨセフの言葉を、チュチャがじっと待っている。ヨセフはしばし逡巡し、小さく息を吸い込んで、──しかしそれを言葉にする前に、はっと扉を振り返った。
 家の扉の向こうから、何やら、怒鳴りつける声が聞こえたのだ。
 インティの言葉で、男が言い争っている。怒鳴り声に対し、比較的落ち着いた声音でそれを諭そうとしているのは、チュチャの兄、ワスカルであろう。先ほど訪れたらしい客と、口論にでもなったのだろうか。咄嗟にチュチャへ視線を向ければ、彼女もいささか困惑した様子で、扉の方へ視線を向けている。
 ノートを閉じ、ヨセフがそっと席を立つ。それをとどめようとするように、チュチャがヨセフの服の裾を引いたが、しかしヨセフはその手をそっと退けると、ゆっくりと家の扉を開けた。
「リクチャ、モスコクユ、アリンクサ……、武力を持った諸部族は、皆、太陽の加護がなければ動かない。王の血族が立たなくては、戦いにすらならないだろう」
「だがこのままじゃ、パーヤの部族は全滅だ。征服者達め、俺達の命なんて何でもないと思ってやがる。金を採掘するためだけに酷使して、立ち上がれなくなったら殺される。このまま耐えてなるものか」
 沈痛な面持ちでいるワスカルに、食って掛かる男があった。この男もどうやら、インティの人間であるようだ。彼はワスカルの胸ぐらをつかむと、押し殺した声でこう叫ぶ。
「太陽の加護? 王の血族? そんなもの、皆とっくに殺された! ならば何を望めばいい。俺達には、このまままるで家畜のように、使い潰され死んでいく未来しか残されていないというのか!」
 悲嘆に暮れたその形相に、思わず一歩後ずさる。ヨセフの肩が扉にあたり、かたんと小さな音を立てた。それでようやく、男もヨセフの存在に気づいたのだろう。彼は血走った目でヨセフを睨みつけると、「こいつは何だ」とワスカルに問うた。
「征服者達のような服装に、この青い目──。インティの女を奪っていった、征服者の倅か」
 「そうだ」と短く肯定する声。ワスカルはそっと、男とヨセフとの間に立ち入ると、低い声でこう続けた。
「白き人々と、インティの間に生まれた混血だ。だがその心は、インティの土地の上にある。この子はインティの伝承を聞きに、妹のところへ通ってきているんだ」
 睨みつける男の視線の先に、ヨセフが手にしたノートがある。ヨセフはそれを抱きかかえると、また少しずつ後退した。
「それは何だ。台帳か。俺達から搾り取った富を、記すための道具だろう」
「違う。このノートは、その、チュチャから聞いたインティの話を、書き留めるためのもので、」
 咄嗟に開いて中身を見せたが、文字を読まぬインティの男に、内容が理解できるはずもない。立ち塞がるワスカルを押しのけ、男がヨセフを追い詰める。
「カイニパ、やめろ。彼は俺達と同じ歴史を共有した、同胞だ」
 唸るようにそう言って、ワスカルが男の肩に手をかけた。カイニパと呼ばれた男は、うざったそうにそれを振りほどき、──その瞬間、なにか小さな塊が、男の胸元から転がり落ちたのを、ヨセフの目は確かに捉えていた。
 足元の草に落ちたのは、拳ほどの大きさをした木彫りの紋であった。顔を持つ太陽をかたどった、何やら見覚えのある紋である。
──これは母さんの宝物。
「その、首飾り……」
 見覚えのあるそれを見て、思わず口に出していた。トゥパクが胸につけている、黄金で作られた首飾り。親指の爪ほどの大きさであるトゥパクのそれとは、大きさも材質も異なっているが、──明らかに同一のモチーフだ。
 インティの神、崇高なる太陽神を模したものであるのだと、いつか母が言っていた。それをインティの人間が持っていたところで、おかしなことはなにもない。しかし、
「何故これが、首飾りであることを知っている」
 唸るような声と同時に、カイニパがヨセフの両肩を掴む。ヨセフが思わず呻き声を上げても、この男の力は緩まない。
「この首飾りを見たことがあるのか? それは黄金で作られていたか? 答えろ! もしそうならそれは、──それはインティの王族だけが、身につけることを許された品だ!」
──これは母さんの宝物。今となっては戻らない、古い神様の忘れ形見。
 とぷんと静かな水音が、ヨセフの脳裏に蘇る。恐ろしく澄んだ泉の色と、太陽のものとも、月のものともわからぬ、真っ白に輝く高貴な光。
 黄金のコンドルを従えた男は、『あの夜』、ヨセフにこう言った。
──久しぶりだね、コリンカチャ。……おや、違うな。よく似ているが、別人だ。それがどうして、こんなところへ迷い込んでしまったのやら。
 眉根を寄せ、カイニパの手を振りほどく。同時にワスカルがカイニパの体を引いたので、自由を取り戻したヨセフはよろけ、家の壁に背をついた。
──トゥパク。お前は私に残された、宝物のその片割れ。お前は気高く飛翔する、コンドルの最後の子。太陽の神に愛された、コンドルの最後の子。
「……。あなたの胸元から、落ちてきたから、……それで、首飾りだろうって思っただけだ。別に知ってたわけじゃない」
 咄嗟に口を突いて出た、自らの嘘に驚いた。
「似た模様を、見たことがあったんだ。でも俺も、うろ覚えで、……。旧大陸の軍人がたまに付けているじゃないか。星型の、その、胸章? それと見間違えただけだ」
 思った以上に堂々と、ヨセフは言葉を羅列した。有無を言わさぬその物言いに、気圧されるところがあったのだろうか。カイニパが距離を取るのを見て、ヨセフは己の衣服を正すと、ちらと視線を横へそらした。
 ヨセフの後について外へ出てきていたチュチャが、じっとヨセフを見つめている。先程と同じように、──じっと静かに、ヨセフの青い目に見入るかのように。
 ヨセフの青いその瞳から、何かを、汲み取ろうとでもするかのように。
「とにかく、」
 苛立たしげに言うカイニパが、ヨセフを避け、ワスカルに向き直る。
「パーヤの部族に援軍を。もう限界だ。蜂起するより他にない。こうしている間にも、味方はどんどん減っていくぞ。強制労働に、膚の爛れる奇妙な疫病。最近じゃ、信仰を口実にした異端審問すら行われてる。審問官がインティを殺す時、どうやって殺すか知ってるか? その身を大地に残させないよう、火で燃やして殺すんだ。今日だってここへ来る途中、西へ向かう審問官の一団を見た!」
 西へ。その言葉を聞き、ヨセフは「えっ?」と声を上げた。アルマスの町からほど近いこの土地から、西へ向かえば他に幾つか、白き人々の領主が治める土地がある。
 そのひとつが、ヨセフの父が治める土地、クェスピ領であった。

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