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永遠を彷徨うコンドルの噺 

​里見透

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 上の空でそんな事を考えるヨセフの傍で、級友達が顔を突き合わせ、深刻な様子で何やら話し合っている。いつの間にやら、休憩時間に入っていたらしい。ヨセフは板書を書き写しただけのノートを閉じ、次の授業の準備をしようとして、耳に入ったその会話に、思わず手を止めた。
「アロンソのところ、母親が追い出されたって?」
「この前の船で、本国から大量に『花嫁候補』が来ただろ。それで父親がインティを追い出して、本国から来た女と再婚したんだってさ」
「それで今日は来てないのか。あいつ、母親と仲が良かったから」
「そりゃ、ショックだったかもな。俺のところはもともとインティと一緒に住んじゃいないし、本国人の母親ができるなら、それもいいなって思うけど」
 平然となされるその会話に、思わずごくりと唾を飲む。平静を装うべきだと努めるのに、つい羽ペンを落としてしまった。拾おうと身をかがめるヨセフに気づいた級友達は、一旦会話を止め、親切にそれを拾ってくれる。
 彼らはただ、教室で習ったとおりにインティを軽んじ、蔑むだけの、至って善良な級友であった。
「そうだ。お前のところも、確かインティの母親と仲が良かったよな」
 問われて、「ああ」と曖昧な声を出す。「本邸と別邸とで、住むところは別れてるけど」言い訳がましいヨセフの言葉を、級友達は感慨もなく受け取った。
「今の話、聞いてたか? まあ、仕方ない流れっていえばそうだよな。未開の土地だった新大陸も、旧大陸の人間が開拓したおかげで、これだけ住みやすくなったんだし。最近じゃ、本国からの船には大抵『花嫁候補』がわんさか乗ってくる」
「お前のところも、軍人を呼んでは宴会三昧らしいじゃないか。そろそろ、帰ったら新しい母親ができてたりするんじゃないか?」
「……、いや、うちは、……うちの父親、見栄えが良くないから。本国からはるばるやってきた女性になんて、きっと見向きもされないよ」
 やっとのことでヨセフが言えば、級友達は軽く笑って、「そういうもんでもないらしいぜ」と語る。
「『花嫁候補』っていうのは、玉の輿を求めて新大陸へ来るんだって。裕福な家に嫁げるなら、相手がどんな醜男でも、そんなに気にしないんだとさ」
 「そうなんだ、……」顔に笑みを貼り付けて、一言言うのがやっとであった。
 授業の終了を告げる鐘の音と共に、ヨセフは颯爽と教室を後にした。ビリヤードをしに行かないかと誘う級友達に、今日はごめんと声をかけ、すぐさま厩舎へ足を向ける。馬の手綱を引いてアルマスの市場を通り抜け、広い道に出るやいなや、ヨセフは馬に飛び乗り、道を駆けた。
 胸がずきずきと鳴っていた。それを誤魔化すかのように、速度を上げ、己の呼気を弾ませる。
(何が、……何が新しい母親だ。そんなふうに、──まるで物を買い換えるみたいに)
 ぎりりと奥歯を噛み締めて、シャツの上から己の胸元を握りしめる。
 あの父が、ある日女を連れ帰る。その光景を想像すると、ヨセフの胸のうちに激しい炎が湧いて出た。己の容姿にコンプレックスを持つ父は、きっとまた美しい女をよりすぐり、己の手中に収めようと策を巡らせることだろう。それが手に入ったなら、もはやヨセフの母になど、見向きもしないかも知れない。白き人々の崇める神は、他重婚を許さない。ならば母は、捨てられるのだろうか。ヨセフはどうであろう。インティの血を引くヨセフは、──同じように、安易に打ち捨てられるのだろうか。
 だがそこまで考えて、ヨセフは思わず笑ってしまった。
「今更じゃないか。……そうだ、今更だ。白き人々も、インティの民も、考えることは違わない、……」
 ヨセフが取り戻した、太陽の紋の首飾り。白き人々の支配を受け入れた母は、神と信じたその首飾りを、『あの日』
、泉に投げ捨てた。
 とぷんと響く静かな水音。恐ろしく澄んだその泉に、他の生命の姿はなかった。何が何だか分からないまま、ヨセフは月光を湛えるその水面を、捧げられた供物の大きさだけ乱れた波紋を、ただ声もなく見つめていた。
「新しいものを得るために、みんな、古いものを手放していく、……」
 一人ぽつりと、呟いた。
 
「チュチャ、また話を聞きに来たよ」
 慣れた道を馬で進み、家の外から声を掛ける。気持ちを落ち着かせようと遠回りしたために、いつもより遅い時間になってしまった。馬を降り、手綱をチュチャの家の前に結びつけると、ヨセフは皺になってしまった襟元を整えた。多少衣服が乱れていたところで、チュチャは何も言わないだろう。だが心の内の葛藤を、彼女に悟られたくはなかった。
「チュチャ。……いないのか?」
 普段はこうして呼びかければ、すぐにチュチャが顔を出した。だがその様子がないのは、もしかすると留守なのだろうか。
 薄い戸板が立てられただけの、木造の家の前に立つ。中から何やら、複数の人間の声が聞こえていた。インティの言葉だ。ヨセフの他に、誰か客でも来ているのであろう。
 出直すべきかと逡巡し、しかしその直後、扉が開くのを見て顔を上げた。
 チュチャの家から顔を出したのは、見知らぬ一人の男であった。
 どう見てもインティの男だが、それにしては背が高く、がっしりとした体格だ。刺繍の入った衣服から覗く腕は太く、農夫といった風貌ではない。どちらかといえば、戦いに赴く戦士のようでさえある──
(……、戦士)
──私達の一族は、最盛の王コリンカチャにも認められた、勇敢なる戦士なの。
 思い出し、はっと大きく息を吸う。すると男の後ろから、何事もなかったかのように、チュチャが顔を覗かせた。
「こんにちは、トゥパク。これが、私の兄のワスカルよ」
「……、こんにちは」
 やっとの事でヨセフが言えば、ワスカルと呼ばれたチュチャの兄も、「こんにちは」と口の両端を上げてみせた。ぎこちないが、微笑んだのであろう。ワスカルが一歩外へ出ると、その後ろにいた女が二人、外へ出た。インティの女だ。彼女らは旧大陸風の衣服を身に着けたヨセフを見て一瞬ぎくりとした顔になり、しかしヨセフの顔つきから、どうやら混血らしいと見て取ると、目は合わせずにそそくさと場を立ち去った。
 二人とも手足に傷を負い、それを手当された風貌であった。一人は足を引きずっており、もう一人がそれを支えている。
「入るといい。まだ少し冷える時期だ」
 女達の様子を見守っていたヨセフに、ワスカルが穏やかな声でそう言った。ヨセフは「はい」と頷くと、「はじめまして」と緊張気味に挨拶する。
「あの、度々家にお邪魔していたのに、なかなかご挨拶できなくて、すみません……。トゥパクといいます。母がインティで、それで、インティとしての名前ももらっていて、」
「チュチャからインティの歴史を聞いて、記録しているんだろう。話は聞いているよ」
 ワスカルがそう言って、座るようにとトゥパクに促す。チュチャの兄は普段、日中は狩りに出かけているため不在なのだと聞いていたが、今日は人と会う約束があり、こうして家に残っていたのだという。
 チュチャに兄がいること、両親は他界しており、兄妹二人きりであることは、既にチュチャから聞いていた。ワスカルの方も、チュチャからヨセフの話は聞いていたらしく、ヨセフが家に上がり込んだところで、だから何というわけではないようだった。
「今の人達は?」
 ヨセフが問う一方で、チュチャはスープを器によそい、ヨセフに手渡してくる。インティ流のもてなしだ。ヨセフは素直に受け取ると、それに口をつけた。
「アルマスに住んでいた人達よ。白き人々との間で揉め事が起きて、町に住めなくなったから、この村で受け入れることになったの」
 「揉め事?」ヨセフが問えば、チュチャは一瞬目を伏せて、しかし臆せずこう言った。
「異端審問よ。白き人々が以前から、私達インティの人間にも、彼らの神を崇めるように説いていたのは知ってるわよね。その風当たりが、段々強くなってきたみたい。彼女達は太陽神の紋に祈りを捧げていたのを見咎められて、町での職を解かれ、追い出されたんですって」
 異端審問。それを聞いてヨセフは、ごくりと唾を飲み込んだ。その言葉はどちらかと言えば、神学校で習った旧大陸の歴史の中に馴染み深い。唯一神を讃える彼らと、邪悪な神を祀る異教徒との戦いの歴史については、何度も授業で聞いていた。異なる神を信仰する人々を、異端の者、未開の者と一括りにする彼らは、敵に一切の容赦をしない。
 インティの土着の神々は、これまで比較的容認されてきてはいた。だがその本格的な排除が始まったのだとしたら、きっと、インティの神々はすぐにでも、忘れ去られてしまうだろう。
 インティの人々は文字を持たない。彼らの神々は、ただ、その時を生きる人間の思いの中にしか、生きてはいないのだから。
 ヨセフの表情が強張ったことに気づいたのだろう。チュチャがふと微笑んで、「もう、やめておく?」とそう問うた。何のことかわからずに、ヨセフが視線でそれを問えば、「インティの歴史を語ること」とチュチャは静かにそう続ける。
「旧大陸から来た征服者達は、きっと、私達の歴史と一緒に、私達の神のことすら殺してしまいたいんだわ。だからこうして弾圧する。あなたが文字で書き残すインティの記録は、とても魅力的に思えたけど、……。だけどその存在を、白き人々は快く思わないでしょう」
 チュチャの言葉は滔々と、器に注がれる水のように、ヨセフの心に入り込む。
 彼女の言うとおりだ。ヨセフもそのことは、承知しているつもりであった。けれどだからこそ、──ヨセフの心が、その正論を否定する。
「話して、チュチャ。いつもみたいに」
 持参していたノートを開き、ヨセフが言えば、チュチャははっと視線を上げて、「いいの?」とヨセフにそう問うた。
「いいんだ。だって俺は、……俺はインティを、知りたいんだもの」

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