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​鬼の棲まう窟の噺 

​里見透

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「旬。その項までを読み終えたら、弁当を包んでくれないか。私は今日も、鵺岩窟へ行ってくるよ」
 燕仙が言えば、旬は視線を本に落としたまま、上の空で返事する。とはいえ仕事はきちんとこなすのが、この世話役の常であるのだから、放っておいても問題なかろう。麻衣(あさぎぬ)を羽織って一通りの身支度を調え、靴を履く頃には、やはり玄関に弁当の包みが出来ていた。
「燕仙、あの、……」
 戸に手を掛けた燕仙に、語りかける声がある。ふと振り返れば、緑根譚を手にしたままの旬がそこに立ち、視線を合わせずもじもじと、なにかを言い淀んでいた。
「どうした。……小便にでも行きたいのか?」
「ちっ、違えよ! そんな用件で、呼び止めるわけないだろう!」
 顔を真っ赤にして言う旬に、思わず小さく吹きだした。そんな燕仙の様子を見た彼は、悔しそうに一度足踏みをして、――しかし不意に燕仙のことを睨み付けると、「行ってらっしゃい」とそう言った。
「行ってらっしゃい。……、燕仙師匠」
 師匠。
 唐突に発せられたその言葉に、思わず大きく、瞬きした。この小生意気な少年の口から、まさかそのような単語が飛び出してこようとは。
 燕仙が何も言い返さずにいるのを見て、旬が再び床を蹴る。「俺がそう呼んじゃ、悪いかよ」と告げるその顔には、羞恥で紅が浮かんでいる。
「お前は俺に学問を授けてるんだから、その、だって、俺にとっては師匠だろ」
「……、お前ったら図々しくも、私の弟子のつもりでいたのか」
 あえて意地悪にそう言えば、旬が真っ赤な顔のまま、焦った様子で燕仙を見る。それを見た燕仙は、にやける顔を隠しきれずに、つい旬に向けて手を延べた。
「冗談だよ。……お前みたいな、賢くて、気が利いて、それに面白い弟子に出会えて、……ああ、私は幸せ者だな」
 居場所を持たない旬の姿に、いつしか己を重ねていた。王燕仙に救われた己のように、今度は、王燕仙に成り代わった己自身が、この少年を救えればいいとも思っていた。だが一方で、深入りしてはならないのだと、己を戒め続けてきたのに。いついなくなるともわからぬ身の上で、情を残すべきではないことなど、重々承知をしていたのに。
 ああ、ああ、――もう愛しさが、募ってしまった。
「行ってくるよ、旬」
 燕仙が手を振り外へと出れば、旬はまるで学舎で師を見送る生徒のように、ぺこりと頭を垂れてみせた。賢い子だ。どこからでも学びを得て、日々に活かそうと努力する。燕仙自慢の、強い弟子だ。
(緑根譚は処世術を学ぶのに良いかと思ったが、次はもう少し、実学的なものを教えても良いかもしれないな)
 そんな事を考えながら、もう随分と慣れた鵺岩窟の岩場に入る。旬との生活を送りながら、しかし燕仙は、己がこの地を訪れた、当初の目的を忘れてしまったわけではなかった。
 阿国年代記。――宇宙の書。夢物語のようなその書物の存在に執着するわけではなかったが、しかし様々な年代の修験者達が銘々に彫り、その内に一つ一つの宇宙を内包するこの鵺岩窟は、彼の書の隠される土地として、確かに適切であると思われたのだ。
(『燕仙』が戯れに語った夢を追い、……私は今、ここにいる)
 そう。年代記の噺は恐らく、彼にとってはただの戯れにすぎなかったことであろう。今も存命であったとして、彼は本当に夢物語の書物を追って、こんな所へ赴いただろうか。
(わからないな。案外、何を考えているやら腹の読めない男であったから。……)
 ここにいると否が応にも、本物の『王燕仙』を思わずにはいられない。
(燕仙の処刑の日、私は堪えきれずに刑場へと赴いた)
 そこで最期に、燕仙に会った。
 己を死に追いやろうとしているのが、『彼女』の実の妹であることを、燕仙は承知していたはずであった。またそれと同様に、魯貴妃の罪を暴き立てれば、『彼女』の立場が危うくなることも、この男は理解していたのだ。
 それでも彼は、正義を貫こうと行動した。だから『彼女』に、燕仙を恨む気持ちはない。正しいのは彼の方だ。我が身可愛さに友を救わぬ魯の女に、燕仙を恨む権利など、存在するはずがなかったのだ。
 友。
 そも、彼は友であったのだろうか。刑場に発つ燕仙を見て、彼女は己に問いかけた。
 腫れ物のように扱われ、いつも独りで居た自分と、彼とは大きく違っていた。誰にでも明るく気さくに話しかける彼は、いつだって多くの人に囲まれていて、――彼女はただその大勢の中の、たった一人にすぎなかった。
――その方、本当にお姉様のご友人だったのかしら?
 けれど。
 処刑の日。仲間と共に引っ立てられ、刑場に姿を現した燕仙は、――処刑の様子を一目見ようと群がった民衆の中から、確かに彼女を見いだしていた。
 目があった。それは確かなことであった。きっと燕仙は、彼女のことを恨むだろう。妹の不正を見ぬ振りして、己の身の安全を図る彼女のことを、きっと軽蔑するだろう。そう考えていた。それなのに。
 燕仙は彼女の方を向き、ふと明るく微笑んで、声なき声でこう呼んだ。
「魯華思(ろ・かし)」
 それが彼女の名であった。
 彼の唇が柔らかくその名を象った、その直後。本物の『王燕仙』は、その胸に刃を突き立てられ、絶命した。
「――おや、燕仙先生。今日も石窟の調査ですか」
 鵺岩窟の岩場の路で、馴染みの修験者に挨拶をする。今日は些か、奥まで立ち入ってみようと思うと燕仙が言えば、修験者もそれに頷いた。
「そういえば、……第六十窟の横穴の奥に、新しい石窟が見つかったという話は聞きましたか?」
 問われて、燕仙はきょとんとしたまま首を横に振る。ここの石窟は、自然の窟を利用して、修験者達が次々と掘り進めているのだとばかり思っていた。そんな中、新しい石窟が『見つかる』という事があるのかと、純粋にただ驚いたのだ。
 燕仙のその表情を見て、修験者はこう解説した。
「鵺岩窟の石窟は、何百年もの歳月を掛け、その時々の人々の手により作られてきたものですからね。その中の幾つかは、内部を塑像や壁画で飾られながら、しかし入り口をすっかり閉ざされ、隠されてしまったものもあるのですよ」
「隠す? 何故、そんな事を」
「一概には言えませんが、この辺りも、古くは宗派間の諍いが激しかった土地ですから……。敵対勢力に見つからないよう隠したとか、きっと、そんなところでしょう。まあ、今回見つかったその窟には、作りかけの祭壇があるのみだそうですから、制作の途中で不要になり、忘れられただけかもしれませんが」
 そういうものかと相槌を打ち、燕仙は今し方聞いたばかりの六十窟へ、素直に足を向けることにした。
 人の手により作られながら、入り口を塞がれ、長く存在を忘れられていた石窟。内部の様子は知れないが、何やらやけに、興味が湧いた。しかしそうして歩く内、ふと気づいたことがあり、燕仙は短く息を吐く。
(折角包んで貰ったのに、そういえば、弁当を忘れてしまったな、……)
 帰ったら、きっと旬に叱られる。だが元はと言えば、出がけにあの少年が、慣れぬ事を言って燕仙を戸惑わせたのがいけないのだ。
「……師匠、か」
 思わずそう呟いて、六十窟に蝋燭の火を翳す。そういえば、この窟を訪れるのは初めてのことであった。この二ヶ月の滞在で、数多ある窟にも、それぞれの特徴があることはわかっていた。広い窟、狭い窟、天井に穴が開いた窟。その内部を彩る壁画や、塑像の様も色々だ。それらと比較すると、この六十窟は比較的広く、内部の装飾は簡素であった。
 こつこつと、燕仙の足音が薄暗い窟に反響する。件の窟は、横穴の奥と言っただろうか。それらしき横穴を見つけ、燕仙が奥へと足を踏み入れると、確かに先にも空間がある。蝋燭の火を掲げ直し、細い横穴を進んでいき、――ふと、ぽかりと場が拓けたのを見て、燕仙は湿った空気を吸い込んだ。足元に岩が散らばっている。恐らくこれが崩れたために、この新しい石窟が発見されるに至ったのであろう。
(中には、作りかけの祭壇があるだけだと言っていたな)
 確かに火を翳してみる限り、目新しい物はなさそうだ。壁に顔料の跡はなく、岩を積み上げられた祭壇も、あまりに質素な出来映えである。しかし元来た道を戻ろうとして、燕仙はふと、足を止めた。
 足元に、何かしらの影がある。――巻物だ。新しいものと見えるから、誰か最近、この窟を訪れた人間が、落としていったものだろうか。しかし燕仙が身をかがめ、それを拾い上げようとした、その瞬間。
「魯華思様」
 彼女の本名を呼ぶその声に、ぎくりと背筋を震わせる。咄嗟に声へ火を翳せば、そこに一人の、男がいた。
 闇に融ける黒装束。目許だけが覗くそれを纏った見知らぬ男は、燕仙の前に立ちはだかり、彼女が窟の外へと向かうことを許さない。男のその手にぎらりと光る刃が握られているのを見て、燕仙は額に汗を浮かべ、それでもにやりと微笑んだ。
(ついに、来たか、――)
 死んだ王燕仙の名を騙り、一処に居続けた。いずれ追いつかれる。そうとわかっていたことだ。恐らく彼は魯の家か、あるいは魯貴妃の差し金で、ここへやってきたのだろう。
 魯の家を棄て裏切った、彼女の命を奪うために。
「今まで一体何をしていたのだ。ちっとも姿を見せないから、私を殺しに来てはくれないのかと、心配してしまったではないか」
 泰然自若とした態度を、崩さずに済んでほっとする。どうせここで殺されるなら、無様ではなく死にたいものだと、そう思った。既に覚悟は出来ている。彼らが彼女を殺害しようと目論むのなら、彼女には抗う手段がない。
(いや、違うか。私には、……彼らに抗う、理由がないのだ)
 名門である魯家に生まれ、その富の中で生きてきた。器量の良い妹と比べられ、虐げられていたとしても、彼女は結局、家の名前に守られていた。幸いなことに勉学だけは得意とするところであったものだから、家の名に国家試験通過という付加価値を付けることにして、必死に己の立ち位置を確保してきたのだ。
 官僚になったことも、宦官として男達と肩を並べて仕事をしたことも、けっしてそれ自体を切望したわけではない。ただそれしかなかったから、そうすることがせめて正しいはずだと信じて、ここまでずっと生きてきたのだ。
 けれど。
――眉唾物の噺ばかりと言ってくれるな。世の中にはまだまだ、俺達が思い描いたこともないような、面白いものが沢山あるはずだ。それを探して見もせずに、「あるわけない」なんて切り捨てるのは、勿体ないことだと思うぞ。
 己の好きに生きようとする、ある人間の熱に、あてられた。
 彼を喪ったその時に、心に火が灯ったのだ。それは初めての衝動であった。どうすることが正しいか、どう考えるのが賢いか、打算的なそれまでの価値観が、がらがらと崩れる思いがした。
 行ってみよう。この男がいつか、見てみたいと言ったものを見るために。探してみよう。荒唐無稽な夢物語の内にある品を。そうした後に、何が残るかわからない。何も残らないかもしれない。けれどこれまでに生きてきた、魯華思という不格好な女を一度すっきりと脱ぎ捨てて、――ただ、その心に灯った思いのままに行動する、一人の人間になってみようと、その時確かに思ったのだ。
(王燕仙の名を騙り、しばし諸国を周遊した。今までには訪れたことのない土地に赴き、見たことのない物を見た。もう、十分じゃあないか)
 目を瞑ると、旬の顔が脳裏に浮かぶ。今頃彼は、課題に残してきた書物の書き取りでもしている頃だろうか。まだ教え足りない思いはあったが、しかし賢い子あの子のことだ。学び方を知ったこれからは、燕仙の助けなどなくとも、己で学んで生きてゆけるだろう。
 そうだ。『王燕仙』の短な旅は、――刹那のことかも知れなくとも、あの時灯った火の分だけ、きっと十分に輝いた。
「王妃様より言伝を承りました。『その名は役に立ったか』と」
「魯貴妃が? ……、一体どういう意味だ?」
 丁重な口調で告げたその男に、眉を顰めて問い返す。しかし男は応えず、ただ、手にした刃を構え直すのみだ。これ以上のことは彼も知らないか、あるいは、説明する必要がないということであろう。
(大体、聞いてどうする)
 どうせ今にも、喪う命だというのに――
 刃がぎらりと輝いた。しかしその切っ先が燕仙に届く、その直前に、
「――燕仙! ばかやろう、なに突っ立ってんだ!」
 場に響いたその声に、燕仙ははっと息を呑む。
 旬の声だ。何故旬が、こんなところにいるのだろう。咄嗟に掲げた火にそれを見て、燕仙は青ざめた。旬がその手に持つ物が何なのか、すぐに理解をしたからだ。
(……弁当、)
 燕仙が忘れたそれを見て、届けてくれようとしたのだろう、――。だがそう思う側から、右肩に走った鋭い痛みに、燕仙は大きく悲鳴を上げた。男の薙いだその刃が、燕仙の肩を裂いたのだ。
「燕仙、しっかりしろ、……燕仙!」
 視界がぐらつき身体が揺らぐ。その場にどしりと座り込み、燕仙は駆け寄ってくるその人影に、「来るな!」と短く怒鳴りつけた。
 旬の声に反応したせいで、刃の軌道がずれたのだろうか。すぐ死に至る傷ではないと思えたが、ぱっくりと裂けた傷口からは、止めどなく血が流れ出る。「邪魔が入ったな」と呟く声を聞き、燕仙は短く息を呑んだ。男の持つその刃が、旬へ向いたことに気づいたからだ。
「旬、……!」

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