鬼の棲まう窟の噺
里見透
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腹の内から声が出た。痛みのことなど忘れていた。この身の総てを賭けてでも、守らなくてはとそう思った。
血に塗れた燕仙の手が、床に落ちた何かに触れた。それが一体何であるのか、確認するような暇はない。しかし燕仙の意識は、その正体を判じていた。
巻物だ。この窟の床に置きざりにされた、何とも知れぬ巻物が、――燕仙の指先に触れた。
同時に。
視界に走ったその風景に、はっと短く息を呑む。燕仙には、僅かな火に灯されるのみであるはずの、『その場の総て』が見えていた。
(この場の総て? 違う、これは、……)
目に映る総ての物が、目まぐるしく移り変わってゆく。一体何が起きたのだか、すぐには理解できなかった。長く住んだ中原の屋敷、燕仙とよく語らった庭、彼女の記憶にある場所と、見たこともない風景とが、瞬時に視界を過ぎっていく。
(私は、何を見ているのだ?)
先の尖った背の高い城。見たこともない木々の生い茂る森に、不思議な色の鳥が飛ぶ土地。これは何だ。必死にそう問いかけるのに、応える者はそこにない。全身を虚空に投げ出されたかのような心許ない浮遊感に、燕仙は吐き気を催した。しかしその手が支えを求め、宙を漂ったその瞬間。
「あの少年は、『私』の放った刺客に刺されて死ぬでしょう。可哀想にね。魯華思、あの子はお前の巻き添えになって死んでいくのよ」
聞き覚えのある声がした。慌てて周囲へ視線を向けても、求める姿は見られない。しかしこの声は間違いなく、――妹、魯貴妃のその声だ。
「だけど、お前が嘆く必要はないの。その少年のちっぽけな死すら、その事実は既に『書かれている』ものなのだから」
――世界の総てって……。そこには例えば、そう、例えばこの町のこととか、……この辺りで起こった争いごとや、それに参加した人々のことまで、書かれているっていう事か?
――いいや、それに限らない。例えば今日、私とお前が出会ったことすら、そこには既に『書かれている』んだよ」
得意げに言ったあの言葉が、彼女の耳に響いていた。過去の声。恐らくそこに、『記された』声。
「……阿国年代記」
思わず小さく、呟いた。
「そう、おまえ達がそう呼ぶ物。――そのごく断片、数多ある見え方のうちのひとつ」
魯貴妃の声が、また言った。
「気にすることは何もないのよ。お前が救えなかった王燕仙のその死ですら、既に記された歴史の末端であったのだから。……ねえ、魯華思。その言葉を聞きたかったのでしょう? お前はそうして罪悪感から逃れるために、その書を探していたのでしょう?」
女の細いその指が、そっと燕仙の頬を、――魯華思の柔いその肌を、引き裂くようになぞっていく。華思は、それに応えなかった。
魯貴妃の言葉は確かであった。その為に彼女はここへ来たのだ。救えなかった友の名を騙り、友の望みをなぞるようなふりをして、……心の中ではずっと、ずっと、赦しの言葉を待っていたのだ。
しかし。
「そこをどけ」
「何故」
「お前と問答している暇はない!」
恫喝し、見えぬその手を払いのける。鬼の姿が見えていた。恐怖に怯え、ぽろぽろと涙をこぼす子供の鬼が。ああ、――あれはいつかの魯華思の姿だ。
そして今、彼女が守らねばならぬ、一人の少年の姿である。
脇目もふらず、しかし一点を目指してゆく華思の背後で、魯貴妃はぽつりとこう言った。
「おや、お前はそちらの『未来』を選ぶのかい。お前の中にそれ程の火があろうとは、私は思いもしなかった」
からかうようなその声音は、確かに魯貴妃のものである。間違いようもない、妹のその声である。しかし。
「まあそれでこそ、待った甲斐があったというもの。友の死を経てその名を奪い、『私』を探したお前だもの。いずれ本当の名を取り戻す時、なにか面白いものを見せてくれやしないかと、少し期待をしていたんだ。――どちらを選んだにしても、構わないさ。どうせどちらの未来も、既に書かれているのだから」
ぷつりと視界が、闇に落ちた。
(……、違う)
違う。闇に落ちたわけではない。彼女の目の前には、恐怖に怯える旬の顔が迫っていた。
「旬!」
叫びに近い声を上げ、この少年のまだ幼い身体を、全身で抱きしめる。何の咎もないこの少年を、兇刃の餌食になどさせやしない。この身が盾になればいい。しかし震える身体で旬を抱きしめ、強く目を瞑った彼女のすぐ背後で、
男が叫び声を上げた。
慌ててそれに振り返り、そのまま動ぜず、息を呑む。先程まで刃を向けていたあの男が、今は真っ赤な炎に包まれて、断末魔の声をあげていたのである。
燕仙が蝋燭に灯していた、あの火が燃え移ったのだろうか。身の毛もよだつその声に、咄嗟に手を出し、旬の頭を抱きしめる。耳を塞いでやれたらいいと思うのだが、先程切られた右の腕が、意志に反してあがらない。
「燕仙、お前、腕から血が、……」
「私は大丈夫。私は、――私は」
震えを隠せずそう答えながら、燕仙は己の置かれた状況を判ずることが出来ないまま、ただ、崩れ落ちる男の姿を眺めていた。
そちらの未来を選ぶのか、と、魯貴妃は彼女にそう言った。ならば今ある現状が、燕仙の選んだ未来であるということだろうか。旬を助けるその代わりに、命じられてこの地へ赴いたのであろう、名も知らぬ男を犠牲にした、この現状が。
嫌悪感を覚える臭いを発しながら、燻る人影のその足元には――、先程ちらと視界に入った、一巻の巻物が燃えていた。
「阿国年代記、……宇宙の書、そのごく断片」
ぽつりと小さく、そう呟く。肩で息をする燕仙の脳裏には、明るい女の笑い声が響いていた。
――命の短い生き物は、かくも忙しく変化する。ああ面白い、面白い。
***
「それじゃ、みんな元気でな」
そう言い手を振る旬の姿に、修験者達も微笑んだ。この少年を己等の窟から追い出した過去を持つ彼らは、この旅立ちをどう受け止めているのだろう。しかしこちらを振り返った旬の表情を見て、華思は、無粋な考えを改めた。
「行こうぜ、燕仙。……いや、行きましょう、華思師匠」
わざとらしく言い直したこの少年は、文句の付けようもない、旅立ちに相応しい笑顔でそこにいる。華思もそれに頷くと、穏やかに微笑んだ。
「まずはどこへ行く? このまま西へ流れるか、それとも南へ下っていくか」
「どちらにせよ、北神山路を越えて行かなきゃいけませんからね。しばらく大変ですよ。……ところで師匠、腕の傷は、本当にもうすっかり良いのか?」
何度目かのその問いに、「くどい」と思わずそう返す。
あの日、――六十窟の奥で刺客に命を狙われたあの日から、既にまた、半年近い月日が流れている。負った傷は出血量こそ多かったものの、命に関わるものではなかった。右腕は以前ほど自由に動かすことこそ出来なくなったが、腕ごと切り落とさずに済んだ分、良かった方だとそうも思える。傷の手当てをした医者には、根気よく動かし続けていけば、多少は、動きの自由さも取り戻していけるだろうと言われていた。
そうして華思は、旅立ちを決めた。
――友の死を経てその名を奪い、『私』を探したお前だもの。いずれ本当の名を取り戻す時、なにか面白いものを見せてくれやしないかと、少し期待をしていたんだ。
不思議な刹那の夢の中、聞き覚えのある妹の声は、――『妹を模した』その声は、華思に対してそう言った。
あれら全ては本当に、魯貴妃の言葉であったのだろうか。あの不思議な体験は、今となっては夢であったか、現であったか、それすら華思には判じ得ない。だが、――
「せっかく馬を買ったんだから、ほら、師匠が乗ってください。俺が手綱を引いていくから。ああ、その前に荷物を貸して。その右腕じゃ、乗せられないでしょう」
率先して世話を焼こうとする旬に、思わず小さく吹き出した。「お前、私なんかについてきて、本当に良かったのか?」と問えば、この少年は華思をちらと睨み付け、「それこそ、くどい」とそう言った。
「ついていきますよ。俺は、魯華思の弟子だから」
堂々と言うその言葉に、華思もやれやれと頷いた。
旅立ちの際、旬は岸壁に絵を描いた。光雲母神の傍らに立つ、優しげな鬼の絵であった。
鬼の棲まう窟の噺
2017/12/9