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​鬼の棲まう窟の噺 

​里見透

- 3 -

 ***
 
「なあ、こんな話を知っているか? 中原を抜けた西域に、面白いものがあるらしいぞ」
 懐かしいその声に、はっとなって顔を上げる。見慣れた屋敷、見慣れた中庭。現実には失われた、あるはずのない穏やかな景(かげ)。それが夢であることは、すぐに理解のあるところであった。
 そうだ。既に喪った景を求めて、わざわざ彼の地へ赴いたのだ。そう考えればあの頃のことを思い返してしまうのも、無理からぬ事であろう。夢の中、すらりとその場へ立ち上がった『彼女』は、穏やかにその声を受け入れた。
「廖賀の皇帝が望んだ不老不死の秘薬とも、緋伍の高僧が望んだ救世の錫とも肩を並べる代物だ。どうだ、詳しいことを聞きたいだろう、気になるだろう」
「また、いつもの夢物語か? まったく、お前はそうやって、眉唾物の噺ばかりを並べたがる」
「まあそういうな、勉学の好きなお前のことだ。今回ばかりはこれを聞いたら、目を輝かせるに違いない。『阿国年代記』と呼ばれる、全知の書物の噺だぞ。その書物には、遠い過去から未来まで、総ての事象が事細かに記されているらしい」
 彼はそうして、現実にはおよそありえないような物事を、語って聞かせるのが好きな男であった。だが彼女がその話に付き合ってやったのは、けっしてその類の話に興味があったわけではない。ただ単に、仕事以外で彼女に話しかけるような奇特な人間は、彼の他にいなかった。だから暇を持て余して、この男の語る荒唐無稽な噺に耳を傾けていたのである。
「――妹はあんなに器量良しなのに、お前と来たら多少勉強ができるばかり。女が学問などしてどうするの。見目も悪ければ、刺繍も作詩もできやしない。魯家の恥と思いなさい」
 幼い頃から彼女は、女のするべきとされる凡そのことに、なんの感心も得られない類の人間であった。骨をゆがめながら小さな靴を履き、外には出ず、白い肌を美しく磨いて、やがて己の立場を確立すべく、男の元へと嫁いでいく――。それは彼女の求める生き方ではなかったが、しかし周囲は己の道を歩もうとする彼女のことを、赦そうとはしなかった。
 特に彼女を責めたのは、彼女を産んだ母である。母は度々、彼女とその妹とを比較して、彼女のことを貶めた。それを間近に見ていた妹も、そのうち母を真似るようになり、美しい指で彼女の頬をなぞりながら、昏い声でこう言った。
「醜いお姉様。わたくし程の美しさがなくたって、魯家の名さえありお母様に気にいられていたなら、良家に嫁ぐことも出来たでしょうに。薄暗い書庫や庶民の集まる町中に、一体どう心を奪われたというのかしら」
 学びを得たいと望む彼女のことを、理解しようとする人間はいなかった。彼女の妹が後宮に入ることが決まると、それは尚更悪化した。
「まあせいぜい、わたくしの足を引っ張るような真似だけはしないでくださいね。お姉様」
 最早実家に居場所はなかった。しかし独りで生きてゆくための宛もなかった。それで彼女は奮い立ち、官僚になり己の力量で立身出世するために、男に混じって、国家試験を受けたのである。
 彩国で立身出世を望もうとする男なら、誰もが目指す難関の試験に、彼女は一度で合格した。彼女が女であることは、公然の秘密であった。しかし頭脳明晰な彼女の能力が買われ、また実家の家名に守られたことで、彼女は女ではなく宦官であるという名目を得て、己の立場を得たのである。
「魯貴妃(ろ・きひ)が子を身籠ったそうだ」
「もしこれが王子なら、魯家の繁栄は約束されたも同然だな。老年の王はすっかり魯貴妃に心を奪われて、今は彼女の言いなりだとか」
「だが、もう時期五つになる王太子がすでにいるだろう。あれがいる限り、魯貴妃の子は王にはなれまい」
 後宮に入った彼女の妹もまた、己の戦場(いくさば)でその辣腕を振るっているようであった。いつしか魯貴妃とまで呼ばれ、王の寵愛を一身に受けるようになったのだ。
 だがそれに比例するかのように、姉である彼女は誰からも、腫れ物に触れるかの如き扱いをされるようになっていた。女の身でありながら官吏として役職につき、その妹は後宮を牛耳る王の寵妃。迂闊に関わりたくはないだろう。周囲の思惑は彼女にとっても、よく理解のあるところであった。出世の道具にしようと声をかけてくる者はいたが、彼女もそれを、適当にあしらった。
 実家を出、己の足で世に踏み出した。しかし結局彼女は、誰にとっても扱いにくい、邪魔者でしかなかったのである。
 そんな時分に知り合ったのが、『彼』であった。
「おお、お前さんが噂の、女宦官か」
 その男があまりに自然に話しかけてきたのを見て、彼女はただただ純粋に、驚きを隠せないでいた。しかし答えを返せずにいた彼女に、この男は笑顔で、他愛もない世間話を始めたのである。
「俺も宦官だ。まあ家柄の良いお前さんと違って、田舎出身の叩き上げだけどな。名は、『王燕仙』。お前は? 魯貴妃にちなんで魯貴宦なんて渾名されてるみたいだが、本名は、なんていうんだ?」
 人懐っこい男であった。損得を考えない、真っ直ぐな気性の男であった。人に愛され、誰とでもすぐに打ち解けることができる。その性質を、何度羨んだことかわからない。
 彼にはいくらだって他に友人がいるのに、荒唐無稽な噺を仕入れる度に、それを語って聞かせに来てくれるのは嬉しかった。いつしか友になっていた。だが彼女はそんな燕仙を、――救うことができなかった。
 鴻嘉六年冬のこと。凍てつくように冷えるある日の朝、彩国の王太子が息を引き取った。風邪をこじらせ、肺を病んだ末の死であった。しかし王室がそう公表したところで、都にはまことしやかに、ある噂が囁かれるようになる。王子を出産した魯貴妃が、己の子を王位に立たせるため、――第一王位継承権を持つこの王太子を、亡きものにしたのであろう、と。
 噂は事実であったろう。少なくとも、彼女は今でもそう思っている。だが事実が明らかにされることは終ぞなかった。事の次第を明らかにしようと動いたものは皆、――正妃の座に上り詰め、より強固な権力を掌中に収めた魯貴妃の手で、刑に処されてしまったからだ。
 人望の厚い彩王景の治世の内、歴史に汚点を残す事件であった。魯貴妃を王太子殺害の犯人であると糾弾したものは皆、魯貴妃の手により死刑を言い渡されることとなったのだ。
 そうして処刑される者の中には、彼女の友、――『王燕仙』の姿もあった。
 処刑の前日、なんとかして燕仙を助けようと、彼女は数年ぶりに妹の元を訪れていた。てっきり門前払いをされるかとも思っていたが、そういうことにはならなかった。魯貴妃は数年ぶりにまみえる姉を己の部屋まで招き、しかし有無を言わさぬ笑みを浮かべて、彼女に向かってこう言ったのだ。
「この処刑は、お姉様のためでもあるのよ。あの者達はあるはずもない陰謀論を声高に謳い、わたくしを貶めようとした。わたくしを貶める行為は、即ち魯家の名を貶める行為。わたくしが私情をもって王太子を殺害したなどと吹聴する輩を許してしまっては、――お姉様だって、ようやく勝ち得た今の居場所を、失うことになるのですよ」
 「それに、」と魯貴妃はこう続けた。「お姉様の言うそのご友人、……その方だって、己の行為がお姉様の立場を失わせる類のものだと知っていたはずでしょう。それでも他の者らと共謀して、わたくしに罪を着せようとした。ねえ、お姉様」
 美しい妹のその唇が、艶やかに輝いていた。
「その方、本当にお姉様のご友人だったのかしら?」
 言い返すことは出来なかった。
 刑は結局、魯貴妃の思惑通りに実行されたのだった。
 
 ***
 
「おい起きろ、朝だぞ。今日は緑根譚をやるんだろう。燕仙、――燕仙!」
 綿の入った半纏で顔を叩かれて、寝ぼけ眼を両手でこする。うっすらと目を開けてみれば、たすき掛けをした李旬が、せっせと雨戸を開けているのが見て取れた。
(朝か、――)
 懐かしい夢を見た。眩しい光に目をつむり、しかし射し込む陽光に、致し方なく身体を起こす。まださらしを巻いてすらいない胸元をぼりぼりと掻いていると、燕仙が女であることを既に知っている旬は、呆れた様子で、「少しは恥じらえ」とそう唸った。
 燕仙が鵺岩を訪れてから、既に二ヶ月が経過した頃のことである。二ヶ月。官職を辞し家を出て、大した宛もなしに放浪したこの一年半の中、最も長い滞在となった。ふと外へと視線を移せば、窓の向こうには木々が青く茂り、夏虫が声を響かせている。
 王燕仙の名で得た滞在補助があるのをいいことに、長くこの地に留まっている。これまでは、捨て置いた実家からの追手の目を恐れ、一処(ひとつところ)に長く滞在することはしなかった。だが、今回ばかりは別である。
――前に話した、『宇宙の書』のこと、覚えてるか? 俺はひょっとして、彼の書は鵺岩窟のどこかに秘められているんじゃないかと踏んでいてね。いつか彼の地に赴いて、真偽を確かめようと思っているんだ。
 宇宙の書。全能の書、――阿国年代記。彼はこの地、鵺岩にこそ、その書があるのではないかと、そう言った。
 ふと、この町を訪れたその日に起きた、瓦の騒動を思い出す。あの時燕仙は、あれはきっと、実家の放った追手の仕業であろうとそう考えた。真偽はわからぬ。実際、あれから二ヶ月の間なんの動きもないことを考えれば、あれはやはり偶発的な事故であったのかも知れなかった。
 しかし。
(『燕仙』が夢を語ったこの地へ訪れて、ここでようやく、――私も裁いてもらえるのだと、少し、期待をしてしまったのに)
 旬が押し付けてきた衣を受け取り、手早くそれに着替えを済ませた。いつもの通り、胸にはきつくさらしを巻き、髪をきっちりと結い直す。顔を洗って鏡を覗けば、そこにはまるで洒落っ気のない、地味な小男の姿があった。
(あの処刑の後、私は警吏から奪っておいた燕仙の身分証を持ち、魯家を棄てて旅に出た――)
――この処刑は、お姉様のためでもあるのよ。
 形の良い唇で、当然のように語った妹の言葉に、反論することができなかった。それは確かなことであった。女の身を宦官と偽り、それで官職に就くことができていたのは、全て家の名あってのことだ。その家の名が地に落ちたなら、――彼女の行き着く先など、知れていた。
(我が身可愛さに友を見捨て、己を恥じて家を棄てた。そうして、)
 今は根のない草となり、宛もなく、友の遺した荒唐無稽な夢想を追ってここにいる。
「なあ、燕仙。支度はできたか?」
 衝立の向こうから声をかけたのは、旬である。この二ヶ月の間、なんだかんだと文句をたれながらも燕仙の世話役を続けた彼は、今ではすっかり仕事にも慣れ、また燕仙が戯れに教えた王道四書の一部を、諳んじてみせるほどになった。
 もともと賢い子であった。燕仙の身の回りの世話だけでは持て余している様子であったので、ふと思いつき、学問に興味があるかと試しに問えば、彼は躊躇いがちに頷いた。櫻嵐では百姓の息子であったという彼は、文字を知らず、教育らしい教育を受けたことは一度もなかった。だが彼は文盲ながらの特技にして、見聞きしたことを記憶にとどめることに長け、算術でも読み書きでも、教えたことはするすると、その身の内に吸収した。
 下絵の仕事を喪った以上、燕仙がこの町を去ることになれば、旬はまたたった一人、この町で生きてゆかねばならないことになる。だがその時が来たとして、学があれば、身につけたその財があれば、この子はきっと逞しく生きてゆけるだろう。燕仙は、そう考えたのだ。
「せっかちなやつだな。いいぞ、そろそろ始めよう。昨日言った本は、借りられたか?」
「ああ、勿論。『緑根譚』、これであってるよな? 緑という字しか読めなかったけど、でもこの最後の文字は、前に読んだ四牙譚の最後の文字と同じに見えるし、多分これだと思ったんだけど……」
「おや、官吏に頼まず、自分でその本を見つけたのか?」
 燕仙が問えば、旬は自慢気に胸を張って、頷いた。本を借りてくるようにと言いつけてあったのだが、膨大な量の書物が置かれる役所の書架から、己の目で見て目的の本を見つけてくるとは恐れ入った。
――俺に色々と、学をつけてくれた師匠がいたんだ。
 昔、『彼』が語った言葉を思い出す。田舎出身の叩き上げだと己を称した彼も昔、故郷で師となる人物に出会い、そこで学問という世界の入り口に立ったのだと言っていた。
(『燕仙』の師も、私と同じような思いであったのだろうか)
 書物を広げ、手ほどきを受けながらそれを読み下していく旬に微笑んで、そんなことを考える。
(旬もいつか、燕仙がそうであったように、――独り立ちして、ふとした時、私のことを思い出してくれるだろうか――)
――もし李旬を気に入ったなら、連れて行ってはくれないか。あの子はまだ、母親代わりになる人間が必要な年頃だ。
――鵺岩窟に、既にあの子の居場所はない。
 修験者の言ったその言葉に、頷くことはできなかった。
 官職を辞し、魯家を棄てた彼女の行動を、妹はきっと裏切りであると認識しただろう。魯家の名に泥を塗った。まだいたいけな王太子の命を奪ってまで、魯貴妃が守ろうとしたものを――。恐らく追っ手がかかっている。いつ何時、どんな事態に見舞われるかも知れぬ身の上だ。そんな不安定な身元の己が、なにも知らぬ旬の身柄を引き取ることなど、一体どうしてできようか。
(大体、私が『母親』などと)
 考えるだけで笑ってしまう。

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