鬼の棲まう窟の噺
里見透
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李旬と呼ばれた少年は、己のことを絵師だと言った。絵師。一体何の絵を描いているのだと問えば、彼はこの鵺岩に数多存在する石窟で、下絵を描いては小遣いを稼いでいるのだという。
絵を描いて小遣いを稼ぐ、とはおかしな事だ。この鵺岩窟に掘られた神洞は、燕仙が先に聞いた話では、修験者達が己の修行のため、信仰心から洞に絵を描き、像を彫っているということであったはずだ。しかし燕仙がそれを問えば、旬は鼻で笑い、「役割分担だよ」とそう言った。
「修験者達は、信仰心から神を描く。だがその神の絵には、神に退治される脇役達――悪鬼の姿が必要なんだ。人を喰らう鬼、人を誑かす鬼、人を病ませる鬼、……。そういうものの下絵を、俺が描いてやるんだよ。俺の描く悪鬼は、今にも動き出してきそうだって評判なんだぜ」
「ふうん、それじゃあなんで、その評判の絵師が借金まみれで食いっぱぐれているんだか」
嫌味ったらしく燕仙が言えば、旬はぎくりと肩を震わせてから、そっと視線を逸らしてみせた。
鬼。そういえば鵺岩を訪れる前にも、そんな言葉を耳にしていたことを思いだす。
――鵺岩窟には鬼が棲む。
(角のある鬼やら、牙のある鬼やら、いったいどこにそんなものがいるっていうんだ?)
あれほど脅されて訪れた鵺岩であるというのに、こうしてそぞろ歩きをする限り、それらしい様子は微塵も感じない。平屋造の建物が続く大通りには、そこかしこに市が立ち、近隣で採れたのであろう色とりどりの野菜が並べられている。人々は悠々とした足取りで町を闊歩しており、とても、鬼に怯える様子など無い。
鬼の話は、結局ただの噂に過ぎなかった、ということなのであろうか。しかしそれであれば、途中の町々はその噂の風評被害にあっていたということになる。例の鬼の噂のせいで、事実、旅人達はこの鵺岩窟を抜ける交易路を避ける傾向にあるようなのだ。
大彩国の中心地、中原――将河中流域にある平原地帯から西へ旅をするためには、遙かなる北神山麓を超える必要がある。その際、重要視されるのが二つの交易路だ。鵺岩を通る北神山路、それに、より南に位置する東翁砂路という交易路。しかし最近、旅人たちは鬼の噂を恐れ、北神山路よりも東翁砂路を重宝する傾向にあると聞く。この町の人間たちは、その現状を理解しているのだろうか。
(好んで岩窟に住まう修験者どもはまだしも、町の人間達にとっては死活問題だろうに)
しかしそんなことを考えながら、燕仙が角を曲がろうとした、その瞬間。
「おい、――危ない!」
注意を促す旬の声。咄嗟に腕を引かれ、はっとした。
――まあせいぜい、わたくしの足を引っ張るような真似だけはしないでくださいね。
一瞬音の遠のいた世界へ、何年も前に耳にした、――『彼女』の声が脳裏に響く。
膝と掌に痛みが走る。予期せぬ衝撃に目を白黒とさせながら、しかし燕仙は眉をしかめ、周囲を見回して、ようやく事態を把握した。
先ほど歩いたその道へ、四つん這いになった格好でいる。旬に強く手を引かれ、そのまま地面へ転がり込んだのだ。突然何をするのだ、と一瞬苦情を言いかけて、しかし燕仙は振り返って息を呑む。見れば先程まで燕仙が立っていたその場所に、石の瓦がめり込んでいたのだ。
「おいあんた達、大丈夫か!」
周囲を歩いていた人々が、惚ける燕仙と、その脇に尻餅をついた旬に声をかける。そんな声を傍らに聞き、燕仙は地に落ちた瓦を再度見て、ごくりと唾を飲み込んだ。もしこれが頭上にでも落ちていたなら、ひとたまりもなく死んでいたに違いない。「ご愁傷様、ご愁傷様」とつい先程、茶化されたことを思い出す。
そして同時に、
(ああ、――)
心の中で、ひとつ呟く。
(ついに、『追いつかれた』のか?)
「おっさん、大丈夫か」と可愛げもなくそう問う声に、思わずにやりと嗤ってしまう。旬だ。燕仙が笑んだのを見た彼は、訝しむように眉根に皺を寄せ、しかし問うことはせず手を延べる。燕仙も素直にその手を取り、立ち上がると、「お陰様で」とそう言った。
「驚きはしたが、怪我はない」
「そうか。ああ、そりゃ、結構だけど、……」
訝しげな旬の言葉を遮るように、音を聞きつけて飛び出してきた男――この建物の家主であるらしい――が恐縮して、燕仙に何度も頭を下げた。先日の嵐で、屋根が傷んでいる自覚はあったのだが、と語るこの男はいかにも純朴で、謝罪には精一杯の誠意が込められている。
「良い、良い。私を含め、怪我人は一人も出なかった。そう気に病むな」
苦笑しながらそう言って、しかしちらりと屋根を見上げる。瓦のずり落ちた箇所は確かに老朽化が進んでいるようで、周囲の瓦にもヒビが目立っている。
瓦が落ちたのは、どうやら偶然であったのだろう。
(……、てっきり、『あの子』の放った追手に見つかったのかと思ったが)
家主がもう一度頭を垂れて、すごすごと家に帰ってゆく。その後ろ姿を見送りながら、旬が一言、「お優しいことで」とそう言った。
「私の運が悪かっただけだ。あの家主に罪はない」
「鵺岩へ来るなり、尻は墨だらけ、頭上からは瓦が降ってくるなんて、お前、よっぽど運が悪いんだな」
言われて、「確かに」と燕仙も苦笑してしまった。しかしそうしてから、ふと、旬が燕仙の腕を取ったままでいることに気づき、眉間に皺を寄せる。
「おい、いつまで掴んでいるつもりだ」
「ん? ああ、……」
煮え切らない口調で旬が言い、燕仙から手を放す。そうして彼は、――ふと小首を傾げると、「女みたいに細い腕だな」ときっぱり、そう言った。
「そういえばあんた、男にしては声も高いし、首も細いし、」
吟味するように言う旬に、燕仙ははじめ、答えなかった。しかし、
「確か官吏がお前のこと、宦官だとかなんとか言ってたな。宦官ってあれだろ、その、男の、……アレをとると、人間、こんなに女みたいになるものなのか」
真剣な表情でそう問うた、旬のその言葉を聞き、燕仙は思わず吹き出した。
「宦官を見るのは初めてか」
「そりゃ、こんな田舎じゃな。そもそもお前、中原の人間なんだろう。豊かな中原から、なんだってわざわざ、鵺岩くんだりまできたんだ。商人ってわけでもなさそうだし、まさか物見遊山で、こんな辺鄙なところへ来ないだろ」
再び町を歩きながら、何気ない口調で旬が問う。先程の『事故』のことを思い返していた燕仙は、つい本当のことを口にしそうになり、――しかし笑顔を貼り付けて、「私に興味があるのか?」と冗談めかせてそう言った。
「そりゃまあ、わざわざ尻で墨を踏みにきた、変わり者のおっさんだからな。多少の興味は湧くっていうか」
口を尖らせて言う旬に、燕仙はにやりと微笑んだ。それから耳打ちするように、微かな声でこう答える。
「ある品を探しに、ここへ来たのさ」
「ある品?」問い返した旬を見て、燕仙は大きく頷いた。
「廖賀の皇帝が望んだ不老不死の秘薬とも、緋伍の高僧が望んだ救世の錫とも肩を並べる代物だ」
堂々と語った燕仙に、しかし旬の反応は薄い。「悪徳商法にはかからねえぞ、金がないからな」と語るその顔は、初めてその品の話を耳にした、燕仙自身のそれとよく似ている。
――なあ、こんな話を知っているか? 中原を抜けた西域に、面白いものがあるらしいぞ。廖賀の皇帝が望んだ不老不死の秘薬とも、緋伍の高僧が望んだ救世の錫とも肩を並べる代物だ。どうだ、詳しいことを聞きたいだろう、気になるだろう。
――また、いつもの夢物語か? まったく、お前はそうやって、眉唾物の噺ばかりを並べたがる。
「お前に金がないことなんぞ十分承知さ。それで、聞きたいのか? 聞きたくないのか? どうなんだ」
「めんどくせえおっさんだな。はいはい、聞きたいですよ、聞きたいです」
その言葉を耳にして、燕仙はにやりとした。そうしてまずは一言、「年代記を探しているのさ」とそう告げる。
「年代記? 歴史書のことか?」
「まあ、それが一番近いだろうな。だがひとことで歴史書と言っても、この彩国の歴史を記した物じゃない」
「それじゃ、どこの歴史を書いてるのさ」
その問いかけを待っていた。燕仙は得意げに腕を組むと、顎を上げて、「この世界の遍く総てさ」とそう告げる。
「世界の、……すべて?」
より一層訝しげになった旬の言葉に、燕仙はそれでも大きく頷いた。
「その存在を知る人間には、『阿国年代記』と呼ばれているらしい。私の同僚はそれを、『宇宙の書』とも呼んでいたかな。その書物には遠い過去から未来まで、総ての事象が事細かに記されているんだ」
「うちゅうの書……?」
「そう。『宇』はこの世の限りを覆う大屋根を意味することから、天下総ての土地を指し、『宙』は中心にあって循環せる時の概念であることから、過去、現在、未来総ての時を指す。それで、世界の遍く総てってわけさ」
「けど、世界の総てって……。そこには例えば、そう、例えばこの町のこととか、……この辺りで起こった争いごとや、それに参加した人々のことまで、書かれているっていう事か?」
「いいや、それに限らない。例えば今日、私とお前が出会ったことすら、そこには既に『書かれている』んだよ」
熱い口調で燕仙が語れど、旬は「ふうん」と流すだけで、食いついてはきやしない。ただ、「そりゃ、随分な厚みになるんだろうな」とだけ言ってから、ふと足を止め、燕仙の方を振り返る。
「そんなことより、着いたぜ。ここが鵺岩窟だ」
話に夢中になっている内に、いつの間にやら目的地へと着いたらしい。幾らかの期待と共に視線を上げ、――燕仙は小さく息をついた。
ここが鵺岩窟。切り立つ断崖に掘られた、千も二千もある石窟群。八百万の神が祀られる、修験者達の修行の場――。そこはさぞかし神々しい、神聖な場であるのだろうと、燕仙はいつの間にやら、過度に期待をしすぎていたらしい。見ればそこには視界の端まで続く山肌があり、そのあちこちに、ぽかりと小さな穴が開いているのは見て取れる。
しかし、それだけだ。
「これが、鵺岩窟か?」
燕仙が問えば、旬は何でもない様子でひとつ頷き、「中へも入るだろ?」と近くの松明へ向かう。この真っ昼間から、何故松明など焚かれているのだろう。そう考えながら火を移した蝋燭を手に提げ、旬の後へとついていく。そうして旬の選んだ石窟のひとつに入り込んだところで、火を必要とする意図が知れた。考えてみれば当然のことだが、窟の内部に陽は射さず、こうして蝋燭を持って入らなくては、視界はないに等しいのだ。
そんなことを考えながら、それでも更に奥へと進んでいけば、ある塑像の裏側に、隠されたような入り口がある。誘われるままそちらへ進んでみて、――
「これが、鵺岩窟さ」
得意げに言う旬の言葉に、燕仙は今度こそ、感嘆ゆえの溜息を吐いた。
そこにひとつの、『宇宙』があった。
この窟はけっして広くない。人が十人入れるかどうかという空間であるが、その奥には訪問客を出迎えるかの如く、立像が五つ立ち並んでいる。中心に立つは、衆生を悟し極楽浄土へ導くと聞く光雲母神。その脇には人々の生前の罪を暴く蓮秤神と、愛を与える施法神が。更に外側には極楽の門を守ると聞く二柱の神、左慶神と右賀神が控えている。
凛とした目でこちらを見る、光雲母神の面差しの、なんと優しいことだろう。穏やかな顔料で色づいたその立像は、訪れる者の目を奪う。だがこの立像の視線は来訪者にのみ向けられるものではなく、部屋中に描かれた緻密な壁画にこそ向いている。壁、天井を問わず描かれるその壁画が示すのは、――日々を暮らす、人々の画だ。
荘厳な建物の並ぶ都の絵、連なり進む人々の絵。火焔を背負う焦怒神の足元に立つ人々は、今にも戦いに赴かんと言うばかりの形相だ。
「立像の足の組み方、……これは極西、羅馬の様式か? 羅馬との交易は海を通してのみ行われているとばかり思っていたが、陸路でも交流が行われているのか、……」
まさかこんな風景が、外から見えたあの無数の窟の中に、それぞれ収められているというのだろうか。
――西域にある、鵺岩窟ってのを知ってるか? 八百万の神々が祀られる、それはそれは霊験あらたかな場だそうだ。なんでも数万の昔、その地を訪れた仙人が開いた山だとかで、……おい、人の話は最後まで聞けよ! 今度は夢物語じゃない。実際に存在する場所の話だ!
そう食い下がった、『彼』の言葉を思い出す。
――それぞれの窟に神と、それに導かれる世界の縮図が描かれているのさ。前に話した、『宇宙の書』のこと、覚えてるか? ああ、結局そういう話になるのかって? まあいいじゃないか。俺はひょっとして、彼の書は鵺岩窟のどこかに秘められているんじゃないかと踏んでいてね。いつか彼の地に赴いて、真偽を確かめようと思っているんだ。
蝋燭をそっと足元に置き、燕仙は知らずのうちに、己の両手を虚空に向かって延べていた。旬の案内した、この石窟の壁は高い。燕仙が手を伸ばしたくらいでは、岸壁はまだ遙か遠い場所にある。それでも。
何のためにこの地を訪れたのか、と、旬は燕仙にそう問うた。探し物。そうだ、それも嘘ではない。燕仙は彼の遺志を継いで、この地へ宇宙を探しに来たのだ。
夢見がちなある男が語ったその書を求めて、――そして全能のその書物に、
己の罪を暴かれるために。
「おい、おっさん」窟内の景色に魅入り、黙り込んでしまった燕仙を見かねたのだろう。遠慮がちに旬が声をかける。燕仙はそれにはっとなり、慌てて彼を振り返ろうとして、――
「李旬! お前……、ここで、一体何をしてる」
責め立てるようなその問いに、思わずきょとんと瞬きした。
見れば窟の入り口に、数人の男が立っている。法衣を身につけていることから察するに、どうやら噂の修験者達であろう。とすれば恐らく、旬の『小遣い稼ぎ』の雇い主達であるはずだ。しかし彼らは気まずそうな顔をして、遠巻きに旬を取り巻いている。
「その、……久しぶり、」
苦笑混じりに言う旬も、彼らと目を合わせようとはしない。「別に、鬼を描きに来たわけじゃないよ」と話す声は、どこか言い訳じみている。
「客を案内してたんだ。ほら、そこの小さいおっさんさ。わざわざ中原から、鵺岩までこの窟を見に来たって言うもんだから、……」
そう言って、旬が燕仙に視線を向ける。訝しんだ燕仙が、それでも彼に同意すれば、修験者達は幾らか警戒を解いた様子であった。
「そ、そろそろ十分だろ? 行こうぜ。もうじき陽も暮れるし、宿に案内するからさ」
燕仙がそれに頷くと、旬はそそくさと窟を出る。
そうして二人は町へ戻り、夕食をとって、燕仙のために用意された家屋の前で別れた。旬はどうやら、町外れの家に下宿をしているらしい。親はどうした、家族はいないのかと問いかけて、しかし燕仙は、そうすることをしなかった。その代わり、月夜の下で寝静まった町をそぞろ歩きし、もう一度、一人で夜半の鵺岩窟を訪れたのである。
「昼間はどうも」
先程旬に案内された窟へ入れば、見た顔の修験者が一人、今まさに『宇宙』へ華を描いていた。壁面の端に描かれた、楽神亞空の側に舞う、大輪の華々だ。躍動感あふれる足さばきで壁面を舞うこの楽神は手に琵琶を持ち、足元には蠢く悪鬼を踏みつけている――。
「昼間の役人か? こんな時間に、一体何の用だ」
筆を持つ手も止めないまま、修験者が低くそう問うた。邪魔をするなと言わんばかりの様子であるが、燕仙は意にも介さない。
「この町で餓鬼を世話役として雇ったんだが、あまり可愛げのないやつでね。以前はここで仕事をしていたと聞いたんで、その頃のことを、少し聞いておこうかと思ったのさ。あの子のこと、聞かせてくれないか?」
燕仙がそう告げても、修験者はしばらく筆を止めようとしなかった。だが燕仙も、容易に退くつもりはない。修験者のすぐ隣に陣取り、持参した書物を読みながら、これ見よがしに乾かした果物を頬張り始めると、ちらりと視線が向くのを感じる。「食べるか?」と問うたが修験者はにこりともせず、「ついてこい」とそれだけ燕仙に言った。
「李旬は最近まで、この窟で悪鬼の下絵を描いていた」
「ああ、本人からもそれは聞いている」
「では、奴に仕事を回さなくなった原因は?」
問われて、燕仙は首を横に振る。旬が仕事を失った所以。燕仙はまさに、それを知るために一人で来たのだ。
修験者の向かうまま、山場を進みまた別の窟へと入る。そうして暗闇の中に掲げられた火を追い、その岸壁に描かれた絵を見て、――
燕仙は己の背筋に走った怖気に、小さく肩を震わせた。
――鵺岩窟には鬼が棲む。
耳にしていたはずの言葉が、ようやく明確な実感を得た。
壁一面に、鬼がいた。
火で照らし出してすら、闇に深く馴染む墨の黒。それが広い壁一面に、悪鬼の姿を描き出している。一人ひとり違う顔をした鬼達が、泣き、怒り、時には狂気に微笑みながら、この壁いっぱいに群がっているのである。
下絵。下絵と旬は言った。芸術ごとに疎い燕仙に、絵画の作りはよくわからぬ。しかし大胆な筆使いで描かれたそれらの悪鬼達は、まるで今にも壁よりいでて声を上げそうな、そんな迫力に満ち満ちていたのである。
「李旬はもともと、ここより少し西にあった櫻嵐の出身だったんだ」
櫻嵐。聞き覚えのある町の名に、燕仙は思わずはっとした。数年前、増税に反対した農民たちが一揆を起こしたことで、都にいてさえ耳にすることのあった町の名だ。当時は、どこか田舎で起こった、己に関わりのないこととして聞き流してしまっていたが、この周辺の話であったとは。
そう、他人事だと思っていた。どこか田舎の身の程知らずが、無駄な血を流したものだと感じただけで、別段興味も湧きはしなかった。だが、その一揆の結末くらいは知っている。
「確か櫻嵐の人間は、……その殆どが、粛清されたのではなかったか」
燕仙の問いに、修験者がひとつ頷く。「あの子はその生き残りだ」と答える言葉は、どこか突き放すようでもあった。
「李旬も、家族とともに死ぬはずだったのだ。だが通りかかった隊商に保護され、この町へとやってきた。それであの子は私達の書く絵を見て、悪鬼ならば、自分にも描けそうだと言ったんだ。描かせてみて驚いたよ。もともと絵の才能はあったのかもしれないが、しかしあの年の子供が想像だけで、これ程までに生々しい悪鬼を描けるとも思えない。……あの子はきっと己の故郷で、これだけの地獄を、実際に目にしたのだろう」
――世界の総てって……。そこには例えば、そう、例えばこの町のこととか、……この辺りで起こった争いごとや、それに参加した人々のことまで、書かれているっていう事か?
『年代記』の話をした際、旬は燕仙にそう尋ねた。彼はあの瞬間にも、己の故郷を想っていたのだろうか。
「あの子の糧になるならばと、しばらくはここで悪鬼の下絵を描かせていたんだ。だが最近、事情が変わってきた。あの子の生々しい悪鬼の姿を見ると、旅人たちが怯えるのだよ。気づいているかも知れないが、隊商が東翁砂路へ流れてしまっているせいで、鵺岩の町は徐々に不利な状況に向かってきているんだ。これ以上、李旬に鬼は描かせられない。それで、」
「それで、旬をこの窟から追い出したのか」燕仙がそう問うても、修験者はすぐには答えなかった。しかし少しして、「そなた、本当は女人であろう」と唐突に、燕仙にそう問うてくる。
「何のために男のなりをしているのやら知らないが、もし李旬を気に入ったなら、連れて行ってはくれないか。あの子はまだ、母親代わりになる人間が必要な年頃だ」
「……、旬が邪魔だと」
「そうだ。鵺岩窟に、既にあの子の居場所はない」
きっぱりとそう言い切った修験者の言葉に、しかし燕仙は、頷くことができないでいた。
鵺岩窟にて鬼退治。こうして事情を知るまでは、そんな事を成せたのなら、面白かろうと思っていた。しかし。
(あの子もまた、居場所を持たぬ者なのか、――)
身を寄せるべき故郷を失い、家族を失い、己の立ち位置を失って、……霞の内に今も生きる、悪鬼に心を苛まれる、――彼もそういう人間なのだろうか。
「旬。……私達は、少し似ているのかもしれないな」
窟から帰る月夜の下、燕仙はひとり、呟いた。