鬼の棲まう窟の噺
里見透
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鵺岩窟(やがんくつ)には鬼が棲む。そんな噂が王燕仙(おう・えんせん)の耳に届いたのは、まさしく、この人物が噂の窟へと旅を進める最中のことであった。
大彩王朝、鴻嘉八年五月のこと。春を経て新緑を蓄えた中原(ちゅうげん)は、どこもかしこも賑わう人で溢れている。この地を治める彩王景は老年だが、治世の腕は上々にして、民草からの人望も厚い。都をぐるりと取り囲む中原の町はあまねく潤い、活気に満ちていた。だがそんな都を出で、周囲の様子に影がさしてきたのを感じ取ったのは、燕仙が西へ西へと旅を進め、遙かなる北神山路の麓へ差し掛かったあたりのことである。
鵺岩窟には鬼が棲む。そんな言葉が、そこかしこから聞こえるようになっていた。
「鬼が棲むとは面白い。して、その鬼には角でもあるのか。それとも牙? なんにせよ、鵺岩窟に鬼とは奇異なことだ。あの辺りは修験者のたむろする、霊験あらたかな場と聞いたが」
旅籠からほど近い、地元の人間がたむろする類の茶店でのことである。燕仙がそう問うたのを聞くや否や、周囲で酒を呷っていた人間共は我も我もと振り返り、「そうとも」と声を上げる。
「あの辺りには、修験者様もたんとおります。霊験あらたかな場には違いねえ」
「しかしお役人様、西から荷を積んで鵺岩窟を越えてきた商人達は、みんな口を揃えて、あそこには鬼が棲むと、そう言って震えるんでさあ」
お役人様。恐らく、明らかに農夫のそれとは違う燕仙の身なりを見て、そう言ったのであろう。それなりの観察眼だが、正しくはない。いや、今は正しくない、と言うべきか。続く言葉を促せば、彼らはまた雁首揃えて、燕仙にこう訴えた。
「あの辺りの砂地には、自然にできた石窟が多くあるんですわ。その中に、目を覆うほど沢山の鬼の姿を見た――とかって」
「角のあるのも、牙のあるのも、そりゃあ大勢おるそうです。最近じゃ、その噂のせいで、行商人の足も遠のく次第で」
「北神山路を避けて、最近じゃ東翁砂路を使う隊商が多いとか。お役人様、何とかして下せえ。この辺りの町は、交易路に面しているからこそ栄えておるんです。このままじゃ、みんな干上がっちまう」
ある者が恐怖に首を竦める一方で、またある者は訳知り顔で溜息を吐く。困り果てた様子の人々を見て、しかし燕仙は扇の内にすっぽりと己の顔を隠すと、にやりと深く笑みを浮かべた。
「――なるほど。鵺岩窟には、鬼が棲む」
鵺岩窟にて鬼退治。そんな話を聞かせたら、一体『彼』は、どんな顔をしてみせるだろう。
鵺岩窟。鵺岩千神洞(やがんせんしんどう)とも呼ばれるそれは、大彩国の西域に位置する安令省鵺岩市に位置する、北神山麓に切り立つ断崖に掘られた、千とも二千とも言われる大量の石窟群のことである。
燕仙が噂に聞いた限りでは、宮殿のような広さのものから、小部屋のような広さのものまであるそれらの石窟には、そこでの修行を求める修験者達が暮らしている。だが彼らは、ただ石窟を家代わりにしてそこに暮らしているというわけではないらしい。過酷な岩肌に寝起きをし、岩を削り、窟を掘り進めるこの修験者達は、手ずから拡げたその窟の内に、八百万の神々を祀っているのである。
窟の岩壁には極彩色の絵の具で壁画が書き付けられ、内には万を超える神の塑像が作られ、安置されていると聞く。そこに住まう修験者達は、日がな一日神への祈りの言葉を唱え、田畑を耕すでもなく、家畜を育てるでもなく、天下の太平を祈念しながら絵を描き、土塊から神を象って生きているのだ。
絵画に彫像、そして何より妄信的な神への献身。およそ燕仙の興味からはほど遠い、それらについての詳細な説明を聞き流し、ある時は人を雇って輿に担がれ、ある時は自ら馬に跨がり、月日をかけて旅をした。供を付けぬ、気ままな一人旅である。しかしそうして辿り着いたその地、鵺岩にて、――燕仙は大きく、深い溜息を吐いたのだった。
噂に聞く景観を目にしたことによる、感嘆の溜息などではない。そもそも鵺岩に着いたというのに、燕仙はいまだ噂の窟を視界の端にすらおさめていないのだ。
「ええ、と、王燕仙様、王燕仙様でございますね。九事左官の、……ああ、宦官でいらっしゃいましたか。どうりでお髭もないし、小柄で、優しげなお顔でいらっしゃる、」
「髭のことなどどうでもいい。それで、私の滞在補助書は見つかったのか」
「いや、その、もう少々お待ち下さい。なにぶん田舎なものですから、こうして都のお役人がいらっしゃることなど滅多になく、」
「役人としてきたのではない。先にも伝えたとおり、個人的な用があってきたのだ。ああ、まさか公的書類を漁っていたのではあるまいな。そっちの箱はどうだ。おい、そこのお前はなぜ手伝いもせずに座っている」
苛立ちを隠せずそう言えば、ボロ小屋のような役所の中、ぎしぎしと鳴る椅子に腰掛けた別の官吏は、「自分は担当外ですから」と悪びれもせずそう返す。
鵺岩の町に滞在するため、事前に申請を通しておいた滞在補助書を受け取りに訪れた、町外れの役所の内。官吏に用件を告げたのは、もう半刻は前のことであっただろうか。待てども待てども姿を見せない許可書を視線で求めながら、燕仙は再び深い溜息を吐き出した。
管理の仕方が雑すぎる。窓口からひょいと覗き込んだ室内は雑然としており、これでは多少の書類を紛失したとて、気づきようがないだろう。都の役所の働きを知る燕仙からすれば、彼らがこのような無様な仕事で禄を食んでいることに腹すら立ったが、今は、口を出せるような立場でもない。
鵺岩の町の土を踏むまでに、まだどれ程の時間を要するかもわからない。致し方ない、少し休んででもいよう、――。しかし燕仙が近くの椅子に手を掛け、腰を下ろした、その瞬間。
「あっ!」と、非難めいたその声が、燕仙の耳を貫いた。続いて聞こえてきたのは、まだ大人にはなりきらない、やや掠れた声である。
「おい、お前! 一体どこに座ってる、今すぐにそこをどけ!」
燕仙がふと振り返れば、中庭に面した廊下の向こうから、ずんずんとこちらへ駆けてくる人物がある。少年だ。擦り切れ、色の褪せた衣を纏った、少年の姿がそこにあった。
年の頃は、十二、三といったところであろうか。あまり裕福とは見えず、ざんばらの髪を適当に掻き合わせてひとつに結わき、足袋も履かずに素足で草履を付けた姿でそこにいる。先程の声の主であろうが、その少年がじっと燕仙を睨みつけ、一直線にこちらへ向かってくるのを見て、燕仙は幾らかたじろいだ。
少年の目の下に、随分と深い隈がある。都で忙しく働く官吏たちならばまだしも、まだ幼い子供の目許に何故、――。だがそんなことを考えながら腰を浮かし、ふと耳にしたその音に、燕仙は眉間に皺を寄せた。それから「うわ」と、声を上げる。
尻と椅子の合間に、真っ黒に濡れた布があった。
いや、どうやらそうではない。見れば汚れた布の他に、椅子の上には真っ黒な塗料の入った瓶が倒れている。――どうやらその塗料の瓶を、燕仙が尻で押し倒してしまったようなのだ。
真っ黒に染まった己の衣服を持ち上げて、つい情けない声を上げる。墨であろう。旅の荷物は最低限しか持参していないのだから、あとで洗濯をしなくては、――。そう考えた燕仙が溜息をつく一方、駆け寄ってきた少年は機敏に墨瓶を持ち上げると、ぎっと顎をあげ、――怒りに満ちた表情で、燕仙の事を睨め付けた。
「おい、一体どうしてくれるんだ! 人の画材を不意にしやがって」
画材。この墨のことであろうか。詳しいことは判ぜぬが、こうして一方的に怒鳴りつけられると、燕仙もつい、かちんときた。ろくに確認もせずに腰掛けた燕仙に非がないわけではないが、椅子に一瞬腰掛けただけだ。ただ黙って言われっぱなしでいてやる筋合いはないだろう。
「画材だあ? 苦情を言いたいのは私の方だ。見ろ、この服を。台無しじゃないか!」
「そんなこと知るか! 俺は! この椅子で! 毎日! 敷布を乾かしてんだよ! そこへ勝手に座りやがって!」
「この椅子が、一体どこに置いてあるか知ってるか? 役所の! 滞在補助受付の! 前だぞ! そこへ、滞在補助待ちの私が腰掛けて何が悪い。役所の椅子を私物化しおって、公共物横領でお縄に付けてやろうか!」
売り言葉に買い言葉、燕仙が堂々たる態度でそう返せば、少年は口をつぐみ、悔しげに押し黙る。勝った。相手が己より随分と幼い少年であろうが、燕仙は少しも容赦しない。燕仙が勝ち誇った笑みを浮かべるその横で、口論など気にも留めずに書類を探し続けていた官吏は、「あった!」と無邪気な声を上げる。
「王燕仙様! 王燕仙様! 王燕仙様でよろしかったですよね!」
「何度も呼ぶな、それであっている」
「ありました、ありました。何の手違いか、燕仙様の滞在補助書が廃棄の箱の方に紛れてしまっておりまして、……あれ、でも」
訝しげな官吏の声に、慌ててそれを振り返る。散々無駄な時間を取られた挙げ句、余計なことに気づかれてはたまらない。しかし燕仙が口を挟むその前に、官吏は掲げた票を燕仙に向け、燕仙の名に塗られた黒い墨を指さして、頓狂な声でこう言った。
「燕仙様のお名前に、死亡印がついております。どうやら滞在補助の許可が下りた後、お亡くなりになった、という事になっているようですね」
死亡印。
一瞬の間ののち、大袈裟な調子で吹きだしたのは、先程の少年であった。ぎょっとなった燕仙が言葉を失っているのを見て、彼はどうやら、先程の借りを返す良い機会であると判じたらしい。顔の前で手を合わせ、御霊(みたま)のご平安をお祈り致します、と経を読み出すこの少年を睨め付けると、燕仙は官吏に向き直り、「馬鹿を言うな」と詰め寄った。
「私が死んだことになっているだと? じゃあなにか、ここにいる私は幽霊だとでも言いたいのか?」
「いえ、そのう、そういうわけじゃないんですが、書類上はそういう事になっておりまして、……」
「身分票だって見せただろうに! もう一度見せてくれようか? 人を死人扱いしおって、」
「はあー、ご愁傷様、ご愁傷様」
「お前は拝むのをやめろ! 官吏、それで私の滞在補助はどうなるんだ!」
怒気を押し殺してそう問えば、官吏は青ざめた顔に笑顔を貼り付けて、「ひぇ」とか細い叫び声を上げる。
もう一押し。燕仙が眉間に皺を寄せ、顔を寄せて事を問えば、官吏は無言で白い修正墨を取り出した。
「そのう、恐らく死亡印は、何かの手違いかと思いますので、……」
「当たり前だ。私を勝手に殺してくれるな」
「そうですよねえ、はは……、死亡印は、この、これ、修正墨でスーッと塗りつぶしておきますので、……ええと、元々の滞在補助書を見るに、燕仙様には滞在中の住居の斡旋、それから世話役を一名提供するようにと指示が出ておりますね。世話役は、こちらで適当に見繕わせていただいてよろしいでしょうか」
「ああ、頼む。なるべくこの辺りの地理に明るい者にしてくれ」
そう言って、ひとつ大きく息をつく。計算外のことで時間を食ってしまったが、これでようやく鵺岩の土地を踏めそうだ。しかしそんな事を考えながら、ふと視線を戻し、――先程の少年が燕仙に向けて舌を出し、おちょくるように目を剥いているのを見るや、――燕仙は冷静な声音で淡々と、「この餓鬼を」と官吏に告げた。
「この餓鬼を世話役に付けてくれ。この私に喧嘩を売ったこと、存分に後悔させて、噎び泣くほどこき使ってやる」
「李旬(り・しゅん)を? はあ、構いませんが。見ての通りの子ですからね、世話役としてお役に立つか」
ぎょっとした様子で声を上げたのは、李旬と呼ばれた少年だ。
「ちょ、ちょっと待て! おっさん達、勘弁しろよ! 俺にだって都合ってものがあるんだから、」
「――茶屋での無銭飲食十五回、家賃滞納二ヶ月分、大家への借金七十二銭、質屋で質料を上げてくれと駄々をこねること数回、……」
唐突にそう割り入ったのは、先程「担当外」の一言で仕事を断った方の官吏である。彼は淡々と数字を並べると、李旬と呼ばれたこの少年を無表情に見据え、「仕事が見つかって、良かったじゃないか」とそう告げた。
「最近、あちこちからお前のことを相談されていてな。まだ訴えられる程ではいないが、まあ、時間の問題だろう。……刑務部の俺の仕事を、わざわざ作ってくれるなよ。しばらくの間その旦那様にお仕えして、少しはまっとうな生き方をするんだな」
無銭飲食だの借金だの、官吏の告げた内容に、どうやら覚えがあるらしい。少年は最早ぐうとも応えず、ただ無言で、ごくりと唾を飲み込んだ。
それで、そういう事になった。