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アカシア年代記3話

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アンティオ王国はヴァシリの目と鼻の先にあって、直接の脅威であった。帝国はいつでもアンティオ王国を警戒していたが、ヴァシリティオンの街中にはアンティオ人(アビリア人)が溢れていた。良くも悪くも、ヴァシリ人とアンティオ人との距離は近い。

 一方でグルツンギは同教徒であっても、はるか遠くの国だ。王であるエルナマリクがラカ皇帝を自称し出したことで印象は悪いが、直接的な脅威はない。

 帝国には考えなければならないことが多くあり、グルツンギのことだけに目を向ける暇はなかった。

 だが、常に先回りして脅威を片づけるプセルロスが予想出来ない事態に陥ったのは彼の生涯で恐らく二回だけである。その両方がグルツンギに関することだった。

 一回目はへメレウスとアンヌの婚約。そして二回目が今回だ。

 

 794年6月8日 グルツンギの王自らがヴァシリへやって来た。

 

 同盟の交渉である。

 王であるエルナマリクが提唱したのはヴァシリティオンの港に関してグルツンギの商人を優遇させることだった。

 代償はヴァシリに軍が必要になった時にはグルツンギの軍が駆け付けるという内容である。プセルロスがこの来訪を予測していたら、事前に阻止しただろう。だが、彼にも予測はできなかった。

 何故なら、彼にはヴァシリ側は勿論のこと、グルツンギ側にとっても同盟を結ぶ意義が感じられなかったからだ。

 

 遥か彼方のグルツンギに援軍を要請する価値などない。それにグルツンギ商人の厚遇とは、王が直々に出向いて結ぶような内容だろうか。隣国であるトラニキアが貿易特権を求めるのとは土台が違う。

 ヴァシリに長年憧れを持っている田舎国が、ヴァシリというだけで実利もない繋がりを持とうとする。ましてや王直々の訪れなど、流石のプセルロスでも予想が出来なかった。

 エルナマリク王の背後には多くの兵士が控えていた。

 8年前に使節団がトラニキア国内で惨殺されたことを受けてという名目で、グルツンギの一行は完全武装でやって来ている。もはや軍隊である。

 プセルロスの時代、ヴァシリの軍隊の多くは傭兵だった。ヴァシリ帝国はもはや、百戦錬磨の古代ラカ帝国とは別の国になりつつあった。反対にグルツンギには富はないが軍事力はある。

 西欧諸国は歴史ある豊かなヴァシリ帝国に劣等感コンプレックスを常に抱えていた。エルナマリクはそれを解消させたい。


 

『シメオン年代記』にヴァシリティオンに到着したグルツンギの一行が感動する様が書かれている。

 

“教会に足を運べば、半球の天井は空そのものではないかと錯覚するほど大きく迫ってきた。市場に足を運べば、世界中の商人たちがひしめき合って珍しくも美しい商品を売り買いしていた。噂以上の繁栄は、グルツンギ国内ではけして目に出来ない光景である。ハギア宮殿は更に美しい。バシリカ様式の身廊は古代の神殿を思わせ、アンティオ王国から輸入された技術である幾何学模様は、吸い込まれるように連なっていく。まるで魔法のようだった”

 

 一行を出迎えた中心にいる壮年の男。プセルロスである。

 プセルロスとエルナマリク。歴史的な対面であるはずだった。

 だが、使節団を暗殺した黒幕はプセルロスだと思っているエルナマリクは、慇懃に挨拶をするプセルロスに対して、高圧的な態度を取った。

 口を開かずに、挨拶をするプセルロスの前を通り過ぎて行ったのである。プセルロスは苦笑しただけだった。それどころか彼の代わりに抗議した官僚を宥めている。

 確かに、エルナマリクが拍子抜けするほどプセルロスは下手したてに出た。

 エルナマリクを含め、グルツンギ人にとって男とは威風堂々と真っ向から物事に挑んでいくものだった。元々憎らしいと思っていた相手なので、エルナマリクのプセルロスの評価は辛い。あの宰相は安全な場所からでしか大口を叩けない男であると周囲の人間に漏らしている。

 だが忘れてはならない。

 プセルロスが下手したてに出ている時、それは必ず何かが起きる時なのだ。

 ヴァシリ宮殿はさながら富の違いを見せつけるように、贅の限りを尽くしてグルツンギ一行を歓迎した。しかし一方でヴァシリ人は韜晦とうかいを身につけているので、肝心なところで全く話が進まず、滞在日だけがいたずらに過ぎていった。

業を煮やしたエルナマリクが武力行使をちらつかせようと、腰を上げたまさにその時である。

 ランドヴェルが西方教会の訓示を受けて挙兵したと早馬から知らせがあったのは。



 

 ランドヴェルとは何者であるのか。彼はエルナマリクの弟である。

 話を進める前に、グルツンギの王位継承について少しだけ説明をする。

 彼らの母親はアリエノールという女性で、中世西欧を代表する女傑である。彼女は長男であるエルナマリクよりも、次男のランドヴェルを猫かわいがりしていた。

 二人とも自らが腹を痛めて生んだ子どもである。しかし生まれながらに跡取りとして周囲から大事にされてきたエルナマリクは、自らの子どもである実感が薄かった。

反対に次男のランドヴェルはアリエノールだけの息子である。好きなだけ可愛がることが出来た。

 遂に我が子可愛さで、アリエノールはランドヴェルをこそ王位に就けるべきだと夫であるギョームに詰め寄った。アリエノールは気の強さに加え、彼女の名義で多くの所領を持っているので、女性といえども発言権が強い。だから夫であるギョームは彼女には強く命令をすることが出来ないし、軽くは扱えない。

 それでも未来の王のことである。多くの臣家がエルナマリクの廃嫡に関して反対し、ギョームも長男であるエルナマリクの実力を認めていたので、アリエノールを周囲が宥める形で話は終わった。

 アリエノール一人の暴走だった。

 だが、問題はランドヴェルが母の暴走をそのままにしていたことである。彼自身、満更ではなかった。それどころか、隙あらば兄から王位を奪い取ろうとしていた。

 以上がエルナマリクとランドヴェルの関係だった。

 老いた母の手前弟を処刑することはしなかったが、エルナマリクは弟の財産を取り上げて長年冷遇し続けてきた。当然、彼に挙兵できる資金などはないはずだ。

 更に西方教会の訓示を受けて、というのも分からない。西方教会の最高責任者はエルナマリクをラカ皇帝として戴冠させたのだ。

 エルナマリクと西方教会、彼らは深く繋がっているはずだった。

 

 知らせを聞いたエルナマリクは顔を青くさせて動揺を隠しきれなかった。その様を見たプセルロスは白々しく驚き、同情一杯にエルナマリク王に憐れみの目を向けた。

 プセルロスがその次に口にした言葉、それは東西教会に関わる発言の中で史上最大の煽り文句であった。

 

「お可哀想に。グルツンギでは天地がひっくり返っていらっしゃる」

 

 この同情の言葉を、大雑把に解説するならこういうことだ。

 ヴァシリとグルツンギは同じ神を信仰する同教徒である。この教えは元々迫害している側だったラカ帝国の皇帝が“認めた”ことで、ラカの国教になった。

 そういう歴史があるので、ラカの流れを汲むヴァシリ帝国では宗教権力者よりも世俗権力者の方が立場はずっと上である。宗教権力者は世俗権力者が任命してその地位に就く。

 だが西ラカ帝国が滅亡した後の西方世界はそうではない。西方教会の最高指導者は各国の君主と同等、或いはそれ以上の影響力と権力を持っていた。

 これを踏まえてプセルロスの発言を強引に意訳するのなら

 

「流石、歴史の浅い野蛮国は大変ですなあ」

 

であろうか。

 エルナマリク王は青筋を立てながらも取り繕い、脱兎のごとくヴァシリを後にした。

 同盟など言っている間にグルツンギの都が陥落すれば、その瞬間にエルナマリクは国賊に成り下がり亡命者になってしまう。

 幸いにして食い止めることが出来たエルナマリクは、踵を返して西方教会へ事の仔細を詰め寄った。今度のことは司祭の暴走であり、西方教会としては一切の関与もしていないという。この司教はすぐに身分を剥奪されて追放された。司祭はグルツンギの手の者にかかる前に地中海を渡って異教徒の国へと亡命した。亡命先の史書には、この元司祭は聖職者であったにも関わらず、有り余る金を以て王侯貴族のように豪遊していたと記録にある。

 

 裏家業の人間が、幾多の銀行を経由して後ろ暗い金銭を清くするように、幾重にも経由されたランドヴェルの資金元は謎であった。辛抱強く辿っていくと、ヴァシリの一介の商人にたどり着いた。それがプセルロスの息の掛かった者であるとようやく判明した時にはもう十数年も過ぎた後だった。

 それが分かった時、エルナマリクは長きの時間により薄らいでいた、あわや亡命者になるかもしれない恐怖を思い出し「彼の悪魔の如き宰相が呪われれば、私は幸いである」と怒りに任せて叫んだという。

 思えばプセルロスは常にグルツンギを警戒していた。奇妙なことに、首都を陥落されかけたアンティオ王国よりも、グルツンギに対して距離を取りたがっていた。

 約500年後グルツンギを筆頭に西欧諸国によってヴァシリが滅亡に追い込まれることを知っていたかのような警戒ぶりである。

 

「あの田舎者達に比べたら、異教徒とはいえアンティオの方がまだマシである。何故なら彼らは勇ましいという理由だけで人を殺すことはないからだ」

 

 これはプセルロスが近しい人にグルツンギについて漏らした言葉である。

 

 

(7)

 807年8月16日 プセルロスは引退した。

 

 暑い夏の日だった。57歳。病が進行していて身体の自由が利かなくなっていた。 思い返してみれば、彼の周りで天寿を全うした者は少ない。

 その多くが病や戦で命を落としている。逆にいうと、老衰が珍しい時代だったのかもしれなかった。

 ペラギアはプセルロスの口から引退の話を聞くと、返事もせずに無表情に追い払うような仕草をした。皇帝のその様は、長年仕えてきたプセルロスに対してあまりにも情のない振る舞いだった。

 そしてペラギアはプセルロスが引退した後、お気に入りの美青年達を連れて国内を旅行し始め、遊び呆けた。その無情な様は彼女の母親であるテオファノが亡くなった時に似ていた。

 へメレウスとグルツンギ王女との婚約話が白紙になってから程なくして、テオファノは亡くなった。病死である。

 ペラギアはそれまで母親であるペラギアに、甲斐甲斐しく年金を送り続けては顔を見せていた。

 だが、テオファノがもう長くないと知ると、母親と距離を取って一切面会に行かなくなった。理由は記録されていない。

 テオファノは最期に一目娘と孫に会いたがった。だが、再三送った手紙を、ペラギアは無視している。

 結局、テオファノは一人虚しく亡くなった。葬儀は二人の皇帝を生み出した皇太后らしく、豪奢なものだった。

 

 周囲にはプセルロスへの態度が、亡きテオファノへの態度に重なって見えた。

 約30年も宰相を勤めた男に対する冷たい仕打ちに、心ある者は密かに同情した。 だが、プセルロスは皇帝に何も求めなかった。


 

 プセルロスの病がいよいよ篤くなった。

 危篤の知らせを受けたペラギアはようやく重い腰を上げて、かつて自分を養育してくれた男の自宅へと足を運んだ。

二人きりにさせて欲しいと周囲に命令した彼女は、一人覚束ない足取りでプセルロスの寝室へ入っていった。

 この命令によって、彼らが二人きりでどんな会話をしたのか記録には記されていない。

 程なくして子どものように泣きじゃくりながら出てきたペラギアは、その日以来ハギア宮殿の自室に閉じこもった。プセルロスが亡くなった知らせを受けるとまた泣いた。

 そして彼の為に豪華な建築を立てるように命令を出した。

 宮殿の主はプセルロスではなく、ペラギア自身であるという。


 

「余が死して住まう宮殿である。プセルロスはまた余に仕えるのだ。だからこれはプセルロスの為の宮殿でもある」


 

 まるでペラギアに仕えることがプセルロスの趣味のような言い草である。

 彼女にはそう見えていたのだろうか。





 

 完成した宮殿こそドクサ宮殿だ。一度も使われたことがない、あの宮殿である。

 後年ヴァシリティオンを滅ぼした異教徒たちがあまりの美しさに感動して、壊すことが出来ずにそのまま保持されたギリク建築の最高傑作。

 ペラギアは完成を待たずに世を去った。

 

 プセルロスが亡くなった後、もう成人しているへメレウスに帝位を譲った彼女は、遊覧の旅に出ようとした。だが、新皇帝に連れ戻されている。

 母親の為に美しい奴隷たちを用意して、母の望むものは何でも与えたへメレウスだったが、ハギア宮殿からの外出だけは許さなかった。この処置は軟禁と何ら変わりない。

 へメレウスの本音は分かりづらい。

 前皇帝に対する政治的危惧だったのか、自由奔放な母親に対する執着心だったのか、保護の為だったのか。

 ペラギアは文句も言わずにこの処遇を受け入れた。

 彼女は不思議な女性で、特に美しいとも秀でた人格者であったとも伝わっていない。それでも、外国の史書に悪し様を書かれた師匠と違って、この女皇帝は人から好かれた。身近な世話をする小間使い達、老獪ろうかいなヴァシリ官僚、美しき側室達。誰もがペラギアに親しみを抱いた。

 惚れっぽい彼女が惚れる相手は皆、最後には立場が逆転して彼女を追いかけた。美しい側室たちは、男女を問わずペラギアを自分一人の者にしようと躍起になった。

 ペラギアは愛情に溢れ、人を楽しませることが上手く、人の弱さに寛容であり、そして不誠実だった。

 人たらしとは古今東西そんなものかもしれない。

 へメレウスにもその才能が受け継がれているからこそ、誰もが彼を愛した。母親と違う点は、この息子は自らに向けられる好意に対して無責任ではなかったことだろう。

 

 それでも、多くの人に好意と不誠実をばら撒いてきたペラギアでも、もしかしたらプセルロスは特別だったのかもしれない。

 本項でプセルロスを扱っているからこじつけたわけではない。

 何故なら、宮殿に軟禁状態にされていたペラギアは、亡くなる前にプセルロスのことを呟いている。母親でも、その時に仕えていた唯一の話し相手たる少年奴隷でも、かつての愛人たちでも、子どもたちのことでも、ましてや国のことでもなかった。

 

「もう一度プセルロスと遊びたい」

 

 これが最期の言葉だった。

 自らの黄金期に思いを馳せていたのだろうか。

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