アカシア年代記3話
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さて、こうしてプセルロスの死によって彼の章を締めくくり、次の章に移りたいところである。
だが本書は折角“この世の全てが記録されている”と言われているものなので、他の史書に載せられていない部分についても触れてから次の章へ移ろうと思う。
これは記録であるのだから、彼らの心情について推し量ることは控えてきた。だがこれから述べる部分はいささか彼らの心情に近すぎるように思われる。しかしこれは小説ではなく記録であるのだから考慮する必要はないだろうと結論付けた。
他者の心情を推量しても、それが正しい答えではないように、意図的に情報を伏せることも、他者の意思が働いている点では同じだからである。
前置きが長くなった。
それでは誰もが記録できなかった、プセルロスとペラギアの最後の会話を載せておく。
その日、無表情でプセルロス邸を訪れたペラギアは、寝台の上で弱々しくなっていたプセルロスを見つけると、みるみる顔を歪ませて涙を流した。
子どものように泣きじゃくってプセルロスの近くに駆け寄った。
「余を置いて行かないでくれ」
「見舞いにも来なかった奴が調子の良いことを言ってくれる」
プセルロスは痩せた頬をかすかに揺らし、震える手でぺラギアの頭を子どもにするように撫でた。
どうやら身体も自由が利かなくなってきているようであった。数年前から関節痛も患っていたので、動くたびにプセルロスの身体は軋んだ。
プセルロスの死に向き合えないぺラギアは、今度はプセルロスを睨んで責め立てた。
「余を孤児にするつもりか」
「俺はあんたみたいなでかい娘はいない。あんたの息子程見てくれは良くなくても、ちゃんと跡取り息子がいるんだ」
「お前は余にとって父であり母であり兄ではないか。お前は余を娘であり妹であると思って慈しまなければならない」
無茶苦茶な理屈であった。口の上手いプセルロスも、これには何も言い返すことが出来なかったようで、呆れたようにため息をついた。
ペラギアは我儘な女だったが陽気な性質で、他人を責め立てることはない。だからこれはプセルロスにだけ見せる甘えのようなものだ。
まだ夏の暑さが残る初秋のことである。寝具は薄く、プセルロスの身体の線が見える。
宰相プセルロスと言えば贅沢の限りを身体で体現したような肥満体質だったが、ため込んだ贅肉はここ数年、病によってすっかりと削げ落ちていた。
幾らかの沈黙の後、プセルロスはゆっくりと口を開いた。
「テオシウス様は良い方だったなぁ」
突然この場にはいない人物の名前が出て来たにも関わらず、ペラギアはそうすることが自然であるように相槌を打った。
「余にも優しくしてくれた。同母の兄などより、よほど親切にしてくれた」
「そうだそうだ。アンドロニコス。あいつは救いようがなかった」
「でも、母上はあいつの罪を隠した。母上にとって兄上だけが可愛い子どもだったんだ」
「あれはもう親子ともども、どうしようもなかった」
「お前だけが余を守ってくれたなぁ」
それから二人は、亡き人たちの話に花を咲かせた。それはペラギアの身内の話から始まり、ヴァシリの高官達、ヴァシリ帝国史に確認できない人物たちにまで広がった。
中には女性の名前らしき人物名も挙げられていて、共通点があるようでないような列挙だった。単なる思い出話にしては、彼らと会話すらしたことがないような人物も混ざっているようである。彼らは自分たちが何者によって命を絶たれたのか分かることなくこと切れていった。
それからひとしきり話し合うと、二人は長年の友として笑い合った。そしてペラギアは笑いながら次第にまた泣いた。
俺はなぁ、とプセルロスはペラギアに声をかける。しゃくり上げたペラギアは涙をぬぐいながら顔を上げた。幾らか皺は増えたが、目ばかりは出会った頃のプセルロスと変わっていない。肥満に苦しんでいた時も、神経質そうな目つきだけはそのままだった。
「あんたと出会った時な」
「うん」
「ああ、俺がいるって思ったんだ」
プセルロスは目を閉じて夜伽話をするかのように言った。
「不思議だよな。出自も年齢も性別も、何もかも違うのに。この世の全てが敵で、味方なんか誰もいなくて、見えない敵と戦っててさ」
「そうか」
「うん」
だから、とプセルロスは続ける。少し息が上がってきたようだった。
「だからあんたに他人を愛せなんて言ったんだろうな。他人を味方につけるのが作戦だなんて言ってさ。俺は結局のところ、あんたを全うに幸せな人間にしたかった。だってあんまりじゃないか。世を拗ねた人間がまっとうな愛を知らずに他人から奪って切り開いて、最後に何も残らなかったなんてさ」
ペラギアは返事をしない。
「だからあんたが他人から愛される人間になることで、俺は俺自身を供養できると思ったんだ。馬鹿だよなぁ」
「そうだ、そうだ。馬鹿だ。そなたと余は違う人間なのだぞ。お前自身が幸せにならなければ意味がないじゃないか」
ペラギアは思わず立ち上がって怒鳴りつけた。興奮したようだった。元々泣いていた顔を更に赤くさせていた。
確かに、死ぬ間際にこんな告白をされて動揺しない人間がいようか。そんなことを託されていたなど、共犯者としての裏切りではないか。
怒鳴られたプセルロスは、ペラギアの怒りを予想していたようであった。この男は最後まで先を考えてしか行動しない男だった。
「そうだな。馬鹿だったしおこがましかったな。俺だって若かったんだよ。だがな」
「なんだ」
「死ぬ間際になってみると、俺の人生も悪くなかった。面白かったなぁって思うんだ」
「そりゃあお前。他人の余から見てもかなり楽しそうだと思うぞ」
「なんだよそれ。まぁ、つまりだ。なんやかんやあっても、最後にそう思えるってことは俺は結構幸せだったってことじゃないか?」
「当たり前だ。大体お前。そもそもお前と話し合った時、自分の目的は贅沢の限りを尽くすことだって言ってたじゃないか。国民の不興を買いながら余よりも金持ちになってるんだぞ。どうなんだ」
「そうなんだよなぁ」
二人は笑い合った。
しんみりとした出だしだったにも関わらず、いつの間にか間が抜けた会話になってしまったことも、笑いを誘ったようだった。
笑いながら泣き出すペラギアにプセルロスは宥めるように笑いかけた。
「気長に待ってますよ。また二人で一緒に遊びましょう」
(終)
グラエキア・ルネサンス期に栄華を極めた大富豪・大銀行家の一族がいる。
最盛期には西方教会の最高指導者や当時の世界の中心であったフランカの王妃を輩出した華やかなる名門一族。
歴史に名高いパレ家である。
パレ家の先祖は元々銀行業に手を出す前はグラエキアの東部都市、コンツィーアの炭焼カルボナイオきであった。更にそれより以前は中世ヴァシリ帝国、ペラギア女帝時代の宰相バシレオパトール、プセルロスに端を発していると謳っている。
プセルロスの何代か後の男が失脚の末に異国の地グラエキアのコンツィーアに流れ着き、カルボナイオに手を付けたのだと。
成り上がった者が箔をつける為に先祖を捏造することは良くあることだが、パレ家ははたしてどうだろうか。
捏造だと断じるには、両者の間に奇妙な符号があった。
パレ家の家紋には5つの赤い半球が存在感を放って散っている。
これは夜空の赤々と燃える星を模していて、パレ家の繁栄が星空よりも大きくなるようにとの意味がある。だが、これが実は後付けであるというのだ。
元々この5つの半球は星ではなく丸薬であった。家紋に赤い球(グラエキア語:単数 palla/複数 palle)である丸薬を持つ一族。
これがパレ家である。実は炭焼きの傍らでパレ家は薬剤を取り扱っていた。それなのに、時代が下ると炭焼きであった歴史は残っても、薬売りであった事実は薄れた。どうやら意図的に隠していたようである。
その後の金融業に手をつけ銀行家として名を馳せていた時期にも、パレ家が密やかに薬剤を扱っていたことを裏付ける資料がいくつか見つかっている。パレ家の歴史の中では薬業は一番息が長かったようだ。
一方プセルロスの生家カンダクジノス家。この家もまた、実は薬剤を生業に商売をしていた。そしてパレ家同様に、プセルロスが出世するに従って実家が薬屋である事実は薄れた。
没落した貴族が商売に手を出す外聞の悪さを気にして、プセルロス自身が意図的に隠していたようである。
パレ家に至っては、炭火焼きと薬売りとを明確に差別している。両者に一体何の違いがあったのか。
奇妙で、存在感のある符号である。
また類似点というのなら、両者は恐ろしく交渉ごとの駆け引きが上手く、政治力があった。これについては成り上がったパレ家が箔付けの為に、政治に長けていたプセルロスという過去の異国の偉人を先祖に選んだとも考えられる。なんとも渋みのある人選である。
ところでパレ家には家訓がある。
"事が起こる時、一番得をする人物が疑われるものだ。我が事ばかり考えず、周りの人間へも目を向けよ。お前が悪徳を見せなければ、隣人はお前に優しく微笑むだろう。そうすれば、お前は悪事に手を染めることなく気がついたら全てを手にしている"
歴代の当主たちはこの教えを忠実に守りぬいていた。他家と争わず、どんな派閥の人間とも親しくし、味方を増やす。それは敵を倒すことよりもずっと有益であると、パレ家当主たちは知っていた。
もし本当に、プセルロスとパレ家に繋がりがあったとしたら、プセルロスの時代にもこの家訓は存在したのだろうか。
こんな一見性善説のような言葉をプセルロスが諳んじていたとは考えづらいが、もし本当にそうだというのならなかなかに感慨深い。
何故ならこの文章は絶対に疑われない位置から暗躍せよ、と読むこともできるからである。パレ家が本当に穏やかなる一族であったのか知略を巡らせた一族であったのかは本項では触れない。
しかし本当にプセルロスの子孫がパレ家であったのだとしたら、彼が子孫に残そうと思ったのは確実に後者の意味であっただろう。