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永遠を彷徨うコンドルの噺 

​里見透

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 見知らぬ土地、見知らぬ時の流れの中。少年は一人、宛もなく、ただひたすらに歩いていた。
 その荷に詰めたのは巻物と筆。この地、この時に合わせたら、道具はその形になった。それだけだ。実のところ、道具などもはや何でもいいのだ。確かであることは、それらを用いて少年は、己の見聞きした物事全てを、ただ記さねばならないということだけである。理由はない。あるいは理由があったのだが、長い歳月を経て忘れてしまった。
「単なる暇つぶしだ」
 ふと、言葉が口をついて出た。少年の口から出ただけで、彼自身の言葉ではない。暇つぶし。そうだ、単なる暇つぶしだ。悠久の時に横たわる、ある書物の暇つぶし。
「おい、触れ書きだ。皇帝陛下からのお触れだぞ。何が書いてあるか見に行こうぜ」
「皇帝からの? なんだよ、また太子の処刑だの、隣国への派兵だの、そういう物騒な類の話か?」
「いやいや、新しい皇帝陛下は、民のことをよく考える、お優しい方だと聞いてるよ」
 口々に言い募る複数の声。少年がゆらりとそちらを向けば、なるほど、確かに広場の中心へ、看板が掲げられたところであった。何やら画数の多い文字が書き連ねられている。少年はそれに近づくと、看板に群がる人々へ、穏やかに声をかけた。
「皆さん、あの複雑な文字が読めるのですか?」
 少年の問を聞いた一人の男が、振り返って「ああ、勿論」とまず言った。そうして少年を一瞥すると、相手の男は興味深そうに、「気になるなら、読んでやろうか?」と親切な笑顔で問うてくる。
「お前さん、ここらじゃ見かけねえ風貌だ。さぞかし遠くから来たんだろ? どうだい、一杯飲みに行かないか。俺は、遠い異郷の話ってのを聞くのが好きでねえ」
 人の良いその申し出に、少年は一つ頷いた。衣服はこの地域のものに合わせたつもりでいたが、顔立ちや、あるいはその瞳の色を見れば、彼が異民族であることは、一目瞭然であったのだろう。
 この男は、少年を異国の人間と見て取ったからこそ、代わりに文字を読んでやろうかとそう問うた。見れば少年よりも幼い見かけの子供までもが、不思議そうな顔をして、じっと看板を見つめている。どうやらこの国の人々は、皆当然のように文字を読むらしい。
「あなた方は、己の文字で、己の歴史を書き残すことができるのだな、……」
 ぽつりと一つ、呟いた。その背後でひとりの女が、立て看板の字を読み上げている。
「──年代記? 年代記を差し出せって、どういう意味?」
 少年の唇が、緊張気味にぴくりと揺れた。
 
 ***
 

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 ***
 
 カリカリと、ペン先が紙を撫ぜる音。燭台に灯した明かりがゆらりと揺れ、ヨセフの手元に影を落とす。それでも彼は書き続けた。彼の記憶に新しいうちに、この耳で聞いた全ての物事を、書き記しておきたかったのだ。
 宴の夜のことであった。品のない下卑た笑い声に、調子はずれな楽器の音色。今日もまた、階下の部屋では狂宴が催されているのだ。新大陸東域、遙かなるマンチャシ山脈を臨むクェスピ領の管理を任じられたヨセフの父は、いつだって、本国から送られてくる高官達に媚びへつらうので忙しい。領民から搾り取れるだけの税を取り、彼らが祀る黄金の神像を溶かし、売り捌く。その一方で肥え太った寄生虫共に酒肉を振る舞うことで、この男はようやく己の地位を保っているのだ。
「ヨセフ、……ヨセフ! さあ、お前も来い。皆様方に、美味い酒のやり方を教わっておけ!」
 吹き抜けを通じ、階下の部屋から響いてくる雑音に混じって、父親が声を張り上げている。ヨセフ。すっかり呼ばれ慣れてしまった己の名に、きゅっと奥歯を噛みしめる。
「聞こえねえのか、ヨセフ!」
 怒りの色の混じり始めたその呼び声に、小さく深く溜息をつく。そうしてペンを置き、たった今まで書き物をしていたノートを、戸棚の裏へしまい込む。求められるまま、父のところへ行かなくては。わかっているのに、ヨセフの足が進まない。それでも彼は逡巡ののち、首元のボタンをきっちりと止め、そこにタイを結びつけると、ベストを羽織り、寝室の扉を押し開けた。
 噎せ返るような煙草の匂いに、濃厚な酒が混ざり合う香り。抗いようもなくヨセフを包むそれらの熱気に、できる限りの無視を決め込み、ヨセフはただ黙々と階下の大部屋へ向かっていく。「やっと来たか」と、にやついた顔で言う父が、よく肥えた手で手招きした。
「混血か」
 柔らかなソファへ半ばもたれかかるように腰掛けた、客の一人がそう呟く。ヨセフのことを、頭から爪先まで舐め回すように見るこの男は、詰め襟の軍服を着た出で立ちであった。「こいつの母親が、現地の女でして」と話す、父の口ぶりは自慢げだ。
「この土地ではそれなりの名家の女だっていうんで、妻にしてやったんですよ。ろくに会話もできない無学なやつですが、ほら、息子を見ていただけばわかるように、顔貌(かおかたち)ばかりは美しくてね」
 立ち上がった父親が、ヨセフの顎に手をかけた。客人の方へと無理やり顔を向けられるのを、ヨセフはただ棒立ちになったまま、抗うことなく受け入れる。
 品定めするような客人達の視線に、奴隷の競売とは、きっとこのように行われているのだろう、とそんな事を考えた。白い肌の征服者達は、いつだってこのタワンティン・スウユの血を継ぐ人々のことを、財の一つとしか見ない。所有する価値があるものかどうか、まず、値踏みする。
 タワンティン・スウユ。かつて火の大陸と呼ばれたこの大陸で、代々暮らしていた現地民、インティの民が築き上げた巨大な王国のことである。太陽神を崇拝し、神の子孫たる王を頂に据えたこの王国は、四つの邦(スウユ)とそれらを結ぶ広大な道路網を有し、わずか二十年前まで、八十の民族と千六百万人の人間を統べる栄華の真っ只中にあった。
 だがその豊かな時代は、大陸がある来訪者を迎えたことで、瞬く間に絶ち消える運命となったのだ。
 外よりいづる、イカヅチの神に守られた民、──白き人々。タワンティン・スウユに暮らしてきたインティの民がそう称したのは、海を隔てた別の大陸からやってきた、異民族であった。インティの民と同じ人間でありながら、やけに白い肌を持ち、異なる神を信じる彼らは、その力を誇示するような巨大な船で火の大陸に乗り入れた。そうしてイカヅチの如く轟音を響かせる銃器を用い、瞬く間にタワンティン・スウユを支配したのだ。
 武器といえば石器か青銅器が主流であったインティの民は、鉄と火の前に為す術もなく降伏した。王侯貴族の多くは処刑されるか、傀儡に降り実権をなくし、支えを失った民達は、征服者どもから奴隷同然の扱いを受けている。
 ヨセフの暮らすクェスピ領も、そのようにして支配された土地であった。それを管理するように命ぜられ、赴任したのが、征服者たる白き人々の一人であるヨセフの父。その父の目に止まり、半ば強引に妻とされたのが、生粋のインティ人であるヨセフの母であった。
「黒い髪に褐色の肌。混血とは言っても、これで瞳が青くなけりゃ、現地民そのものだ」
「だが確かに、鼻筋が通って精悍な顔つきだ。筋肉の付き方もいい。本国へ連れ帰れば、東洋嗜好のご婦人方に気に入られるかもしれないぞ」
「十四にしちゃ、幼く見えるな。インティはどうにも童顔だ」
「醜い顔の父親に似ず、男前に生まれてよかったな。だがこの見た目なら、──」
 最も豪奢な軍服を身に着けた男が、意地悪く笑ってみせた。
「インティらしく、それなりの服装をさせた方がいいんじゃないか? まるで本国の紳士かのように、タイまでつけてきたのはやりすぎだ」
 その言葉に続き、まるで示し合わせたかのように、その場の全員が嗤いだす。「確かに」「そうだ」「その通り」迎合する彼らの口元から香る、アルコールの臭いが鼻につく。それを見るや、ヨセフの父親は酔いのためか、あるいは羞恥のためか、顔を真っ赤にしてヨセフの胸ぐらに手をかけた。
 そうされてすら、ヨセフ自身は眉一つも動かさない。こんなことで心を揺らしてなるものかと、自尊心が彼の全てを支配している。父親に半ば引っ立てられるようにして部屋を出、乱暴にタイを解かれたヨセフは、それでも何の不平も漏らさず、されるがままでそこにいた。
「恥晒しめ」
 そう言い捨てる彼の父は、常日頃から、自分自身がヨセフに本国人らしく着飾るよう命じていることなど、すっかり忘れているのだろう。忘れている、あるいはこのいっとき、なかったことにしているのだ。一介の船乗りから、それなりに豊かなクェスピ領の管理官へと成り上がったこの男は、己の過ちをけっして認めようとはしない。
「さっさと失せろ。今晩はもう、客人の前に顔を出すな」
 言われずとも、と心の中で言いおいて、「そうします」と口にした。しかし再び大部屋へと戻ろうとする父親の肩へ、咄嗟に手を置き、引き止める。
「毎週のことですが、念の為……。明日は授業の後、少し帰りが遅くなります。その、聖歌隊の練習に、参加するので、──」
 強い口調で念押しすれば、赤ら顔の父親は、「わかっている。耳にタコができそうだ」とうざったそうに言い捨てる。のしのしと歩いてゆくその背中を、ヨセフは黙って見送った。
 耳にタコができるほど、覚えているならそれでいい。この父親はヨセフのことを持て余しながら、一方でヨセフを──、ヨセフのその美しい容姿を、我がものとして溺愛している。それで、ヨセフの帰宅が遅れたりすると、癇癪を起こして周囲に当たり散らすのだ。癇癪の矛先は大抵の場合、ろくに言語も通じぬヨセフの母に向けられるのだから、それだけは、なんとしてでも避けなくてはならなかった。

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